吉岡文平

「その頃 〜第一アパート制作覚書〜」


1991年春、法政大学の学生会館を歩いていた私に、井土が笑顔で話しかけてきた。「また一緒に映画を撮ろう」彼のこの一言

から『第一アパート』が動き出し、我々の共同作業は再開した。この年大学4年になった我々は、それまで別々の団体に所属し

て8mm映画を作っていたのだが、「今のところで作っていくには限界を感じて」彼は私を誘ったのだと言った。その頃私も同じ

ような気分でいた。4年生ともなるとサークル活動は半分引退したも同然で、普通は就職活動などに勤しんでいる時期である。

だが私はそれらしいことは一切しておらず、暇だった。暇だから映画を撮ろうかと思うが、あまり熱心に活動すると、後輩

たちに煙たがられるので大人しくしていた。後輩たちの映画つくりはとにかく盛んだった。“40人余りのサークル員が、数少

ない調子のよい機材を奪い合う”そんな状況だった。ロートルの私など、とても手を挙げられる雰囲気ではなかった。その

代わり、後輩の映画にはよく呼ばれた。気がつけば、この年だけで4本の作品に出演し、スタッフとしても2作品についた。

おかげで毎日のように撮影が続いて、暇だった春休みは一転、忙しくはなった。しかしどの班へ行っても全くのゲスト待遇

で、“映画をつくっている”という実感は薄かった。そんな折りの井土の誘いは、私にとって願ってもないタイミングだった

のだ。私は躊躇うことなく「やろう」と即答した。


数日後、学生会館のラウンジで井土から具体的な企画内容を聞かされ唖然とする。上京したばかりの頃の“テンパッていた

吉岡”がネタだと言う。ニヤつく井土を見て、やはりこの人は尋常ではないと思ったが、何だか私も俄に盛り上がってきた。

早速その日からプロット作りに着手、数週間でストーリーらしいものが出来上がった。何とも奇妙なストーリーである。


その後、撮影に向けて学内の映画団体協議会に加盟する7サークルから、これはと思うメンツに声をかけ、超団体の撮影隊を

結集した。殆どがロートルだったが、新しいチームが誕生した。5月22日(水)13時阿佐ヶ谷駅集合。シーン#02<主人公の

部屋>の撮影で、『第一アパート』はクランクインした。別段、打ち合わせたわけではなかったが、井土はカメラのそばに

立って主に画作りの視点から、私は殆どのシーンに出演していることもあって芝居周りの視点から、それぞれ演出をいつの

間にか分業していた。登戸・本八幡・高円寺・松阪・・・撮影は週に2回のペースで、7月はじめにはラストを除くほぼ全シー

ンが撮り終わっていた。いや、本来ならラストシーンも撮り終えているはずだった。しかし、大問題が起きた。ラストを飾る

はずの松阪ロケで、あったはずの『第一アパート』がなくなっていたのだ。


今の私なら『半年前にあった建物』目がけていきなり撮影に行くなどということは、絶対にあり得ないが、その頃はそうでは

なかった。当時、松阪市内に実家があった私は、皆を連れて帰省気分で列車に乗りこんだ。“ロケ地が無くなっている”そん

な心配は微塵もしていなかった。あるいはこれが、縁もゆかりもない『人から教わった場所』だったら、いくら何でも「一度

下見しておかないと」と、さすがにロケハンに出かけていたことだろう。上京して4年も経つのに、何一つ変わらぬ故郷が存在

し続けていると、疑いもなく思い込んでいた自分のお目出度さに嫌気がさした。現場に到着し状況を把握した私は、一瞬言葉

を失うも何故か笑いがこみ上げてきたことをよく覚えている。


果たして、かつての“第一アパート”は駐車場になっていた。

「松阪(片田舎)にまで地上げの波が来とるんかいのう……」私へのフォローか沈黙する皆への配慮か、井土は彼らしい一言

を吐いた。私はかつての敷地を確かめるかのように、駐車場の周囲をぐるぐる歩き回った気がする。


いったん宿(私の実家)に戻った我々は、すぐさま対応策を検討した。無論ラストを書き換えるしかない。ゴールだったはず

の“第一アパート”は通過点となり、我々は用意した物語の先へ進むことを余儀無くされた。無論限られた滞在期間のうちに

名案など浮かぶはずもなかったが、手ぶらで帰るわけにもいかず、付け焼き刃のラストシーンを撮った。撮りながら皆、帰京

後の追加撮影を確信していた。その夜、最後の晩だからと、親がすき焼きを馳走してくれたが、私は食欲がわかずビールばか

り飲んだ。皆は「うまい!」と喜んでくれた。とりわけ印象に残っているのは、高橋が「感動したよ。こんな旨い肉初めて

食ったよ」と、満面の笑みで絶賛してくれたこと……少しだけ救われた気がした。


東京へ戻った。その日からシナリオ検討を重ね、どうにかラストシーンをひり出した、ように思う。実はこの頃のことはどう

いうわけか殆ど記憶にないのだ。だが何故か撮影再開までそれほど時間がかかった印象はない。それより、すごく時間が

かかったと強烈に覚えているのは、ラストカットのブツ撮りである。かんしゃく玉の黄色がどうしても思ったように出ず、

3度もリテイクをした。当時の8mmフィルムは、現像が上がるまで早くて5〜6日かかった。撮影後OKかNGかを判断するのに

約一週間を要したのだ。ネガ・ポジ一体の『シングル8』にタイミングなどという贅沢な選択肢はなく、ただ現像されてきた

プリントと向き合って判断するだけだった。それでも半日でも早くラッシュを見たい我々は、撮影後その足で柴崎にあるフジ

の窓口まで直接届けた。わずか2分30秒分の撮済みフィルム1本を携えて、4週連続で柴崎へ通った。駅近くの店で食べる冷や

し中華も定番になった。京王帝都の各駅停車駅は、お世辞にも便利とは言い難く、毎度毎度蝉のうるさいホームで新宿行を

待たされた。日陰のベンチに座ってタバコを吸いながら、通過する特急や急行をぼんやりと見送った。思えばこの年の5月、

喫煙シーン撮影のため、タバコ嫌いの私が、初めてタバコを吸う羽目になったのだった。そして残暑厳しいこの頃、私は嫌煙

家からすっかり喫煙家になっていた。


1992年2月。

編集作業も佳境に入っていた。

六畳一間の井土邸の天井には、細引きロープが対角線に張り渡され、カットごとのブツ切りOKテイクが、ぶら下がっていた。

編集開始当初は、さながら干瓢農家の庭先のように、びっしりとぶら下がっていた8mmフィルムも随分と疎らになってきた。

いや、干瓢だと幅16mmはありそうだから、さしずめ黒い稲庭うどんといった風情か。それを1シーン繋ぐごとに、小さな映写

機で映して確認する。編集に便利な小型のビューワーを先輩から借りてもいたが、どうにも画面が薄暗くて細部まで見えな

い。結局それだけでは間に合わず、リスクの高い“映写機でのチェック”を繰り返した。中古の8mm映写機は、頻繁にフィルム

を巻き込んだり傷つけたりする。ひどい時には燃やしてしまったりもする。とにかくこの世に一本しか存在しないポジフィル

ムである。細心の注意を払い続ける。しかし、その一方で「破損したら、それはそれでやむなし」と開き直る覚悟も、減りゆ

く“8mmのれん”の密度とともに培われていった。


また『第一アパート』は、音仕上げにも相当な時間を要した。サイレントフィルムで撮影したため、台詞も効果音も全てアフ

レコである。スクリーンの画に合わせてしゃべり、足音を鳴らし、缶ビールをテーブルに置くことは、けっこう難渋な作業な

のだ。テレシネやスタジオなどという選択肢とは無縁だった我々は、カタカタとうるさい映写機の回転音を、マイクからいか

に遠ざけるかに腐心した。ある時は学生会館の広い会議室で映写機をずーっと遠ざけて設置し、ある時は井土邸の押入れの中

に映写機を置いて、辛うじて光が通るだけの隙間から映写した。出演者は、唇が触れるほどマイクの近くで話し、かつ息を

吹きかけないようにも工夫した。『第一アパート』の仕上げは、こうした原始的な努力を重ねる一方で、新しい機材も導入し

た。録音担当の菊池忠敬(ロック研究会から参加)が持ち込んだMTR(マルチトラックレコーダー)はそのひとつだ。8mm

(シングル8)の持っているたった2つの磁気トラックへの直接録音を基本と考えていた我々にとって、MTRの出現はまさに

画期的な出来事だった。カセットテープを介在させることで、4つのトラックをひとつのチャンネルにまとめることが可能に

なったのだ。単純計算で8(4×2)トラックものサウンドをフィルムに収録できる。むろん、カセットテープでの作業を重ねる

ことで(音質の劣化を考えなければ)16でも32でもトラック数を増やすことも可能だ。すごいぞ。菊池が文明を運ぶ遣唐使に

思えた。音楽サークル恐るべし。いや、我々が単に無知過ぎたのか。


1992年8月、『第一アパート』は完成した。


この時すでに、我々はふたつのことを決めていた。それは有料で上映することと、自主映画のコンペに出すことである。有料

上映の基本スタイルは今も変わらぬままだが、コンペや映画祭に出すことは、今と全くスタンスが違う。当時はとりあえず

“9月に学生会館で自主上映する”以上の展望がなく、その先は“コンペや映画祭に出品”して、その筋の人間に見てもらう。

見てもらったら、その先何か続きがあるかも知れない。そうした他力本願がどこかにあった。その頃、コンペに出す意義を

皆ときちんと話した記憶はないが、少なくとも私の中にはそういうスケベ心があった。結果そのコンペは、二次選考で落選し

た。落選の知らせに、自分でも意外なほど失望や落胆はなかった。ただ評価を得られなかった作品内容について省みたりもし

たが、それよりも無展望なまま何かを期待してそういう場所に出品しても無駄なんだということを強く思い知った。後の『百

年の絶唱』で 打ち出した“自前でやってゆく”という基本姿勢は、この時の経験が大きく影響していると言える。誤解され

ないよう断っておくが、『百年の絶唱』が広く上映展開出来たのは、スローラーナーの越川道夫氏との出会いがあったから

で、彼の尽力がなければあそこまで大きな広がりにはなっていない。しかし、それも“自前でやる”べく動いていたからこそ

起こり得た出会いであった。“自前でやる”ということは“閉ざして完結する”という意味ではなく、“開いて貫徹する”

ことなのだ。


1992年10月、サークルの後輩から『第一アパート』を東京学生映画祭に出品してもらえないかと打診された。彼は9月の学館

上映で自分がいかに衝撃を受けたかを熱く語り「映画祭に出さないのはもったいない」とまくしたて、「自分は映画祭の運営

スタッフを勤めているからぜひ推薦させてほしい」と続けた。私はコンペの件もあって、正直さしたる関心を持てなかった

が、彼のあまりの熱弁と、とくに今後の上映予定があるわけでもなかったので、大勢に見てもらえるせっかくの機会だからと

考え出品を約束した。


1993年2月、東京学生映画祭本祭に私は出席していた。今はなき三軒茶屋amsである。この年の映画祭は、作品をジャンルごと

に分けて予選を行い、学生審査員に推されたジャンルごとの代表が本祭に選出されるという珍しい選考方法をとっていた。

『第一アパート』が振り分けられたのは“ノンセクション”という部門だった。「そうか第一アパートはノンセクション映画

だったのか」スピリチュアル・ムービーの着想を得る以前の私は、“ノンセクション映画”という奇妙な言葉をひとり反芻

し、どこか腑に落ちないまま予選を終えたのだった。しかし実行委員会の苦心が垣間見えるようで、ちょっと可笑しくもあっ

た。本祭初日に『第一アパート』は上映されたが、ゲストの今関あきよし監督をはじめ会場の手応えはよくなかった。「きっ

とまた駄目だな」そう実感した。最終日、受賞作(といってもグランプリと準グランプリだけだったが)の発表があった。

確かゲスト監督が10票だか20票だかの威力を持って1票を投じ、お客の票と合わせて集計する選考ルールだったように思う。

結局『第一アパート』は1位にも2位にも選ばれることはなかった。予想通りだったので、べつだん感慨もなく私は受賞監督に

拍手を送っていた。しかし予想外のことが起きた。ゲストの崔洋一監督が「規定外だが、どうしても賞をやりたい作品があ

る」と突然言い出して“崔洋一賞”なる特別賞を急遽発表したのだった。「『第一アパート』に賞をやってくれ。これが選ば

れないのは納得できない」崔監督の突然のスタンドプレーに運営スタッフは動揺していたが、会場は盛り上がった。ほんとに

急な出来事だったらしく賞状などはなく、崔監督から副賞壱万円也の包みだけを頂戴した。素直に嬉しかった。


その後の打ち上げで、私は「どこがよかったのか」と監督に聞かない訳にはいかなかった。「最初からまるっきり理解できな

かったところだな。何だこれはと思って見てな・・・結局最後まで理解できなかった。全然俺には分からないんだよ。だから

凄いと……まったく好きな映画じゃないんだけどな。けど最後まで集中して見させられたのはこの映画だけだったんだ。

けっこうきついぜ何十本も学生の自主映画見せられるのは」と崔監督は笑って答えてくれた。ちょっと感激した。これほど

まで真剣に見てくれていたのか。これがプロの姿勢だと見せつけられた気もした。


宴席がはけて別れ際、井土に5千円を渡して私は帰宅した。深夜、高円寺のアパートに着くと当時同居していた弟はもう寝て

いた。

(了)


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