吉岡文平

「ラザロ制作ノート<複廃編>」


いちどある事は二度三度

先日、事務所近くのパチンコ屋を通りがかった際、“新台入れ替え”とステッカーを貼ったポスターに目が止まった。

『必殺仕事人3』と銘打ったその新台のビジュアルに、お馴染みの三田村邦彦や中条きよしに混じって、なんと“スキン

ヘッドの山崎努”の写真があったのだ。「ありえねぇ」私は小さく呟きながら、その前で完全に足を止めてしまった。

そして、しばしそのツルツル頭に見入ってしまったのだったが、やがてこんな台詞を思い出した。

「無理だ。出来ねえ。てめえはいつだってそうだ。たまにはやるって言えねえのか!」

テレビ時代劇“必殺仕置人”で棺桶の錠(沖雅也)が、中村主水(藤田まこと)にぶつける台詞である。殺し屋稼業の彼ら

“仕置人”にとって、失敗りは死を意味するが、正義感に溢れた若者・錠は、義憤に任せて行動しようとする。誰が標的で

あろうが、おかまいなしだ。相棒・念仏の鉄(山崎努)も、然りである。錠と異なり義憤などとは無縁な彼も、滅多なこと

で怯んだりはしない。しかし、主水だけは別である。独り身の気ままな長屋住まいで 失うものなどない彼らと違い、主水

には家庭がある。八丁堀同心という美味しい職もある。だから主水はいつも躊躇う。「ヤツは権力者だ」「あれは相当な

手練だ」「こんな端金で命賭けるのは真っ平だ」……何だかんだと言っては、やる気満々の二人に冷や水を浴びせ、「俺は

おりる」とすぐに尻尾を巻いてしまう。実に情けない殺し屋である。

その昔、熱狂してシリーズを見ていた私は、主水のあまりのヘタレぶりに、錠と一緒になって業を煮やしたものだった。

しかし、主水は知っていた。大事なのは、敵を憎み 怒りに身を任せて 依頼を引き受けることではない。どうやって確実に

仕事を実行するかだ、ということを。また、悪党を仕留めることだけが仕事ではなく、相手を倒した後、無事に戻って来れ

て初めて 成功したことになるということを。

仲間から「腰抜け、臆病者」と誹りを受け続けても、彼だけが稼業の本質を熟知していた。実際、念仏の鉄をはじめ多くの

仲間が壮絶な死を遂げてしまうが、主水は生き延び続けた。

京都国際学生映画祭2003での『蒼ざめたる馬(仮題・枯れた水)』特別上映から、しばらく経ったある晩、とあるきっかけ

から、東京篇さらには伊勢篇という続編構想が、劇的に立ち上がった。なぜか私もその場に居合わせた。それは、セシオン

杉並で行われた“日大文理シネ研の上映イベント”後の打ち上げだった。


論より勢い

普段私は「井土がどこかのイベントで登壇する」などと耳にしても、のこのこ出掛けて行くことはまずない。これでも私は

結構忙しい。また、余程のことがない限り 井土から知らせてくることもない。

しかし、この日は違っていた。私は、どうしても彼に会って資料か何かを渡さねばならなかったのだ。それが何だったの

か、残念ながら記憶にない。電話をかけ、夕方以降の都合を聞いた。「シナリオを教えている日大の子たちのイベントに

呼ばれている」と言う。よし、高円寺なら帰り道だ。とにかく私は会場のセシオンに向かった。せっかくだから、学生たち

の映画を何本か観たいと思って、早めに退社したつもりだったが、到着したのはラス前ギリギリだった。席に着くと、ほど

なく最後の上映が始まった。

8mmではなくDV作品だった。プログラムに目をやると、この日はすべてDVだったらしい。上映中、あまりの画質の悪さに

嘆息しつつも「永久にエンドタイトルが出ないのではないか?」と、不安になるほど 果てしなく続くデタラメな映画を

楽しんだ。後に知ったが、シネ研会長:森田くんの作品だった。

その後、休憩を挟んで トークセッションとなった。ステージには、森田くんと井土が出てきた。“バカだけどすごく勢い

があるヤツ”と、噂には聞いていたが、まさにその通りだと納得した。ゲストの発言中に何度も割り込んでは 中座させて、

自分の意見をぶつける聞き手(森田くん)……こんなトークショーは初めてだ。今回謳った“井土紀州vs日大文理シネ研”

なる文言を徹底しようとしているのか、はたまたゲストという意味を皆目理解していないのか……。しかし、なんと愉快な

若者だろう。“呆れ”を遙かに越えた井土の顔には、終始笑みが浮かんでいた。凄いぞ森田くん。この日のイベントは

予想外の面白さだった。

閉会後、肝心のモノを渡し 所用を済ませた私だったが、気分がよかったので、学生たちに誘われるまま打ち上げにも参加

した。


反主流派という存在

日大文理シネ研メンバーと観客(と言ってもほとんどが関係者)合わせて20人くらいが、打ち上げ会場へ向かって 夜の

青梅街道をぞろぞろと歩いた。東高円寺あたりの居酒屋に到着すると、奥に案内され4人席や6人席のテーブルに分断される

形で着席した。これも曖昧な記憶だが、たしか井土の周辺には森田会長たちが陣取り、トークセッションの続きでも展開

しているような騒ぎになった。しばし近くで話を聞いていた私は、他の子たちとも話そうと思いトイレのついでに別のテー

ブルに移動した。そちらの席には、対照的に礼儀正しく大人しい子たちがいたように思う。

この時私は、意外なことに気付いた。どうも彼らは、会長たちの様子をあまり快く思ってないのではないか?と。「そう

か、一枚岩ではないのか……」この頃『LEFT ALONE』の公開を控え、思考モードもすっかりレフト・アローン化していた

私は、妙に政治テーマにアンテナが反応するようで、彼らの中の“反主流派”の存在を確信した。「今時の若者は、自らが

目立つことを徹底して避けるべく“上辺だけの和”の尊重に躍起になるものらしい」と どこかで聞いたことがあった。

また、自分の学生時代を振り返っても、当時の映画サークル内には、主流も反主流も派閥らしい派閥は皆無だった。

しかし、ここの連中には明確に派閥がありそうなのだ。「おもろいやん君たち」。

私はますます彼らに興味を持って、シネ研の沿革・現状や“非常勤講師 井土”との関係について尋ねたように記憶して

いる。

やがてJR高円寺駅方面に移動して2次会となった。もはや日付けも変わろうかという時間であり、参加者は半減して10人

足らずになっていた。しかしその中には、伊勢映画人会の西村武訓氏の姿もあった。


西から東 また西へ

「僕らとも一緒にやって下さいよ!」

ひときわ大きな声が、深夜のチェーン居酒屋に響いていた。安普請の床やテーブルは振動しやすい。震源は森田くんたち

だ。「東京を舞台でやりましょうよ」。

場はすっかり『蒼ざめたる馬』の続編計画で盛り上がっていた。「たいへんやぞ。お前ら、ちゃんとやれんのか?」など

と、井土も応じている。「大丈夫っすよ。俺ら死ぬ気でやりますから、なあアキラくん」森田くんの舌は、どこまでも

軽やかだ。

木村くんたち京都の学生が 企画を持ち込むよりずっと前から、大学でシナリオを教わっていた彼らにとって『蒼ざめたる

馬』の出現は、まさに青天の霹靂とでもいうべき出来事だった。先を越されたという嫉妬と、井土監督はそんなことを本当

に引き受けてくれるのかという驚きが混然となって、とにかく焦っている……私の目にはそのように映った。

やがて彼らの熱波の飛沫は、私の方にも向かってくる。「俺がよくても、まあでも吉岡くんが OKと言わんことにはな」と、

井土も水を向ける。「吉岡さんどうですか!」「そうやのう……」私は例によって曖昧に頷くだけだった。毎度のことだ

が、これでもノっていない訳ではないのだ。“マユミがさらにパワーアップして大活躍する続編”企画……私なりにこの

話題には興奮しているのだ。だがすまん、大はしゃぎするのはどうも苦手な質なんでね。

しかし、構想は面白くとも 軽々に返事などできない。私はノリだけで 無責任に「よし、やろう」とは言えない立場だから

だ。

「たまにはやるって言えねえのか!」アタマの中では“棺桶の錠”が苦言を呈す。「物事は、そう単純にはいかねえんだ」

今度は“主水”が諭す。『超人バロム1』なみの分裂・葛藤ぶりだなと、ひとり苦笑する。

まあでも、近い将来に彼ら日大チームとの共同作業が、何らかきっとあるんだろう、そんな予感だけで、このままとことん

皆と盛り上がってお開きかな。今夜は十分楽しんだ。

実現の可能性については、また明日素面の冷静なアタマで、もろもろ思案してみます……こんなところではないかと、黙っ

て総括し焼酎のお代わりを注文した。

が、次の瞬間 まったく予期せぬことが起きた。伊勢映画人会の西村氏が思いもかけない言葉を発したのだ。

「実は、伊勢でも映画を撮りたいんですが、ぜひ一緒にやって頂けませんか」

!!!?


ホン重くして道遠し

西村発言で“伊勢篇”構想までもが一気に立ち上がった2003年12月3日未明、「こうなったら三部作や!」井土の咆哮に、

二次会はさらにヒートアップした。もはや私も熱狂の渦の内側だった。それほど西村氏の提案は劇的だった。

もう我々の席には“錠”しかいなかった。

この夜“マユミ”三篇すなわち『ラザロ』に、初めて我々は触れてしまうことになったのだ。三部作はいいが、まだ『蒼ざ

めたる馬』の追加撮影テーマすら、解決していないぞ。

……しばらくしてようやく“主水”が息を吹き返した。

明けて2004年2月9・10日、二日間 京都での『蒼馬』追撮を終えたのち、東京篇こと『複製の廃墟』の制作準備が本格的に

始動した。シナリオ作りは、年末から既に 森田くんたちが先行して取材を進めていた。京都で板倉くんたちが始めたとき

と同じやり方だが、決定的に違うのは、東京で作業していることである。何といっても、監督とコミュニケーションし易い。

そうした地の利せいか、あるいはこれまでの授業の成果か、学生たちも「夏に撮影!」を合言葉に、きっちり提出物

を上げてくる。4月にはプロット第四稿が出て、5月に入ると初稿シナリオが上がった。京都篇同様に今回も、監督はプロッ

ト段階では ほとんど書かず、森田くんたちが上げてきたものを見て 手直ししたりアドバイスをしたりするにとどめていた。

指針は与えるが、学生たちに独力で書かせようとしているように見えた。

そして6月、第三稿が届いた。監督の筆も入ってきていた。普通ここまで敲けば、撮影準備に迷いはない。物事は極めて順調

に進み、若者たちの「夏にクランクインする」という根拠のない目標が、いよいよ現実味を帯び出した。

しかし、私は大きな不安を抱えていた。「みんなには申し訳ないが、このままGOサインを出してしまうわけには……」

なんとも梅雨空にふさわしい心境だった。


兵に常勢なし

最大の問題は、ストーリーの長さだった。

「京都の続きで、短編を撮る。40分ものを3部連ねて、1プログラムを成す」

これが、当初の計画だったはずだ。

ところが、シーン数は40前後を推移し、改稿を重ねても いっこうにスリムになっていかない。それどころか“マユミ”の

活躍は、いや増しに増していった。これでは根本的に体制を組み直す必要がある。私は、京都篇をベースにもろもろを見積

もっていたので、到底 対応しきれるシナリオではない。

しかし、長くなることで断然面白いホンになっていることも事実としてあった。「きっと、このお話しには、どうしても

この長さが必要なのだ」改稿進めど変わらぬボリュームに、鈍い私もさすがにそう気付いた。さらに、監督が参加してから

改訂稿・決定稿と、夏を目前にホンは激しく展開した。

マユミが、私の想定した枠組みを片っ端から粉砕していくのだ。途方もない暴れぶりである。シナリオチームはみんな

マユミの味方だ。やむなく私ひとり マユミと戦おうとするが、何せ相手は怪物である。到底敵うはずもなかった。

そんな私にしても「マユミ、もっとやれ!」などと内心思っているのだから、収拾つくはずがない。

ある日、私は意を決して監督に停戦を申し入れた。

「撮影は延期しよう」と。


時異なれば事異なり

2004年8月25日(水)、『複製の廃墟』篇は予定通りクランクインした。

20名余りのスタッフが、現場に顔を揃えていた。日大文理シネ研“反主流派”を中心に、京都から引き続いて参加する面々、

映画美学校の生徒、どうしてもと わざわざ遠方から上京してきた学生、そしてスピリチュアル・ムービーズのメンバー。

とにかく撮影は開始された。もう後戻り出来ない。フタを開けてみると、案の定アクシデントが続発し、撮影は押した。

しかし私に焦りはなかった。

8月に入ってすぐ、撮影延期テーマで監督と話し合った。席上私は、準備面・予算面などから延期の必要性を訴えた。黙った

まま私の主張を聞いていた監督は、こう答えた。

「“勢い”というものを特に今回は大事にしたい。この夏を逃したら、ずっと出来ない気がする」

私は逡巡したが、結局 予定通りインすることを承諾した。

そして「何だか最後まで“勢い”に押し切られた格好だな」と、自嘲した。

しかしこういう場合は、きっとどこかで無理が出るものだ。勢いだけではとても危うい。無事に撮り終えてこそ撮影のはず

だ。延長を想定してでも、事故だけは回避せねば……私は長期戦も視野に入れて、“勢い”に荷担する“私”に自重を促し

た。

2004年9月2日、一次撮影終了。のち一部改稿。同年10月二次撮影。

2005年4月伊勢篇終了後、加筆改稿。同年7月、実景撮りを皮切りに伊勢篇スタッフも加わって、追加撮影。さらに翌2006

年……。

決して望んだわけではなかったが、本当に長い戦いになってしまった。逆にいちばん驚いていたのも、私だったのではなか

ろうか。

それにしてもスタッフたちは、皆よく 喰らい付いてきてくれたものだ。

2006年師走、音の手直しをしていた我々のところへ、別件で鍋島カメラマンが現れた。ちょうど、オールスルーのチェック

に入るタイミングだった。アタマから80分、皆で『複製の廃墟』を見た。21時、撤収して試写室を出た我々は、鍋島氏を

誘って飲みに行った。

チェーン居酒屋の二階の席で、完成版の感想を求められた氏は、感慨深げに述べてくれた。

「懐かしかったですよ。いつだっけ僕がカメラ回したの?一昨年と去年の夏……そうかあ、もうそんなになるかあ」

そう言われては 照れ笑いするしかなかったが、そのあとの言葉が忘れられない。

「いや、呆れたなあと思って。こんなに長いこと一本の映画のことを ずーと考えている人たちがいるのかと。正直ちょっと

嫉妬しました」

そして2007年、『ラザロ』上映委員会を展開中の今、我々は『ラザロ』のことばかり考えている。


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