岡本隆

「2004.7.26」


「ええーっと、今回の作品の撮影に参加しようと……、いや、えっと、参加したいです。」

みたいな間の抜けた意思表明をして、私の『複製の廃墟』篇への参加が決まった。記憶力が悪いので、誰に伝えたかは

覚えていない。そして、情けないことに、その答えをはっきり言葉として口から出すまでに一ヶ月くらいかかってしまっ

た。確かなのは、私が最後に決定したスタッフと言う事と、参加決定したその日が2004年7月26日の月曜日で、暑かった

という記憶。夏なので、大抵の日はそうなのだが……。

それまで「『複製の廃墟』のスタッフとして参加しないか?」と、何度も大学のサークル仲間から誘いを受けていたのだ

が、断っていた。何とはなしに。

細かい理由は色々あったと思うが、突き詰めると、「何となく」参加したくなかったのだ。たぶん、当時すでに24歳だっ

たが自分のキャラクターを把握できていなかったからだと思う。

断り、逃げていた私だったが、気がつくと私の日当たりの悪いアパートは、スタッフの溜まり場になっており、7月の

半ばには京都から前乗りしていたチーフ助監督の葛西さんが寝泊りするようになっていた。この抜き差しならない状況に、

「これは、もはや事実上のスタッフじゃないのか? 俺……」と思った。そう思ってから、あれこれ考えた挙句、冒頭

の言葉に至ったのだ。何となく。観念したとか、そういうことではないが、この時、自分が何かと巻き込まれやすい性質

を持っていることに気付き始めたのだろう。

そうして私は制作として『複製の廃墟』に加わった。

今まで参加を断り続けていたのに最後の最後でスタッフに加わった為、監督をはじめ、数名のスタッフから「何で参加

しようと思ったの?」的な質問をしばらくの間、散発的にされるようになる。情けない話だが、ハッキリ答えられなか

った。何せあやふやな「何となく」参加してしまったのだから……。


そんなもんだから、撮影準備段階で既に、ギリギリな感じになっていた。

そして、ギリギリなままクランクイン。広角レンズの受け渡しが遅れたとか言うのは序の口で、ほぼ徹夜の下見で得た

情報を引き継ぎ時に伝えそびれたり、(最もやってはいけない)許可取り忘れというのまでやってしまった。

さらに、秩父ロケの際には、ナビゲート役の私が助手席で寝てしまうという珍事まで引き起こした。カメラマンの鍋島

さんが運転中なのにもかかわらず、「すんません、高速降りるまで寝ていいっすか?」と堂々と宣言までして。

その他、部屋が汚いと苦情を言われたり、後輩に説教食らったり、しでかしてしまった事を挙げるときりがない。

 意志薄弱、わがまま、かつ何の目的意識もなかった男が、普段より働いたからやらかしてしまった出来事だと思う。

だからといって許されるようなことばかりではないのだが。ただ、意識の上で、撮影開始時の「何となく制作」から時が

たつにつれ、「仕事できてないけど制作」になっていった。

水道橋の喫茶店で初めて(実は作品参加の半年ほど前にちょっとだけお会いしたことはあるのですが)プロデューサーの

吉岡さんとミーティングをしたときに、「俺は、君らを出来る奴にしようとは思わない。大事なのは作品の成立だ。とは

いっても、アドバイスはするけどね……」と言うような事を言われた。正直ビックリした。そして、イマイチ意味が良く

わからなかった。しかし、ここまでの出来が悪く、「何となく参加」した私を見捨てないでいてくれたことを考えると、

納得である。困ったことに、いまだに「何となく納得」ではあるが。

もし、今、2004年時の私が居たら「もうちょっと早く決断しろよ!」と言ってやりたい。が、どんな形であれ、作品に

参加決定を下したことについては何ら言うことはない。

その証拠として、記憶力に人一倍自信が無い私にとって、この日付(2004年7月26日)を思い出せたという事自体がそれを

物語っている。

『複製の廃墟』への参加を決めたこの日が、私にとっての転機だった事には変わりない。


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