吉岡文平

「ラザロ制作ノート<蒼馬編>」


もうどの位、こんなことを繰り返しているだろうか。深夜3時半、当然の如く終電を逃した我々は、会社のワゴンを借りて

家路に向かっていた。やれどもやれども終わりの見えない『LEFT ALONE』の編集作業。ドキュメンタリーの編集とはこれ

ほどまで難しいものなのか。前作『ヴェンダースの友人』では、仕上げに参加出来なかった私にとって、今回が初のドキュ

メンタリー編集である。商店街の夏祭りビデオなど、仕事で多少は記録映像を触った経験もあったが、今度は映画だ。比較

にならない。更にテーマがテーマだけに、スポーツネタや選挙ネタのように、まずは単純に出来事を追っていって……と

いう構成も通用しない。試行錯誤を繰り返すうち、これは編集というより脚本作りなんだと実感する。思うように捗らない

まま、時間だけが過ぎていった。

だいたいいつも仕事の終わる23時くらいから、やおら監督と作業に取り掛かる。

車で帰るか始発までやるか……そんな日が続いていた。

その日も帰路、定番の大久保通りを走っていた際、井土が思い出したように口を開いた。「そうそう、この前 京都のヤツ

から電話があってな……」焼肉屋の派手なネオンが眩しい信号待ちで、『ラザロ』企画の胎動を私は初めて知ることになっ

た。


電話の内容とは、監督が既に審査員を引き受けていた京都国際学生映画祭2003で、短編作品を一緒に作ってもらえないか?

という学生からのオファーだった。

「そんなもん無理や言うて、一回断ったんやけどな。……しばらくしたら、でも、どうしても映画作りたいんです。僕ら

上映だけやってても物足りないですって、また言うて来よったんや」と、折れて引き下がるものと思い込んでいたのにそれ

どころか“前に出てきた”と、監督は学生達の対応をいたく評価していた。

「これは可能性あるんとちゃうか?」……どうするべきか問われた私は、消極的に「ちょっと考えてみる」と答えた。なに

しろ、秋に上映することが、もう決まっていると言う……無謀だ。言いだした連中はアホに違いない。きっと破綻してしま

う。それが私の包み隠さぬ第一印象であった。しかし厄介なのは、こういう場合、監督はもう行く気になっていることだ。

しかも、こういう時の彼の直感“なんかある!”は往々にして正しい。

困ったな。時期も映画祭シーズンと重なり、私は多忙だ。

次の日、代表を名乗るキムラくんに、とりあえず電話をかけてみることにした。


「もしもし……」甲高くかすれた 非常に聞き取り辛い声が、受話器の向こうから響いた。木村くんだった。声の具合から、

映画祭代表という彼の激務を想像し、まず同情した。“場”を仕切る立場の人間、その孤独と重圧は私なりによく理解して

いるつもりである。後に知ることになるが、その声質は彼本来のものであり、彼が抱えている実務と直結してイメージした

のは、私の早合点ではあった。

彼とのやり取りから 一通り様子を理解した私は、漠然と予感していた。「これは多分、私も行くことになるのだろう」と。

その後、木村くんをはじめとする中心スタッフが上京し、シナリオの打ち合せを行なった。私としては、体制・枠組の話

こそしたかったのだが、その時間はほとんど無かった。なぜなら彼らは、主に別の用向きのために上京していたのだ。撮影

を企画した中心メンバーは、すなわち映画祭運営のメインスタッフだった。出品作品の審査絡みで、彼らは東京に来て 私

とも初めて会ったというわけだ。言いようのないジレンマに身悶えしながら、私はひとり最悪のシナリオをも想定し、準備

に取りかかった。


2003年11月10日朝、私は鍋島淳裕氏(撮影担当)と東京駅“銀の鈴”前で待ち合わせていた。実は、この数ヶ月間 事態は

好転しつつあった。最大のポイントは、何と言っても鍋島氏の参加である。『MOON CHILD』のメイキングで監督とコンビを

組んだ氏が、ラブコールに応じてくれたのである。また、京都の撮影所で職業助監督をやっていた葛西峰雄の参加も大き

かった。ひょんな縁から学生たちへの協力を表明してくれた葛西は、容易く京都に行けない我々に代わって、若いスタッフ

を束ね 劇的に準備を進めてくれた。

「これなら現場が成立するかも知れない」私のシナリオは“最悪”の想定からグッと前向きなものへと改稿が進んでいた。

その頃京都では、前乗りした監督が、学生があげてきたシナリオに徹夜で手を加えていた。木村くんの言葉を借りれば

“物凄い形相”であったという。

鍋島氏と私は 駅構内の喫茶店でコーヒーを飲んで、新大阪行きの新幹線に乗り込んだ。氏は前日までの仕事で お疲れの

様子だったが、私は何か異常なテンションで、話し続けた。車中眠りたいと思っておられただろうに、お構いなしだった。

富士山が見える頃には、氏はすっかり仮眠を断念して 私に付き合う態勢を取ってくれた。とにかく私は必死だった。何せ

出発前に会う事が出来たのは、たった一度か二度で、それも本当に短い打ち合わせの場だった。私は、まだ全然彼のことを

理解していない。到着するまでになるべくコミュニケーションを図り、この人を少しでも認識せねば・・・私の頭には、

現場の成立しかなかった。そのためのキーマンは間違いなくこの人なのだ。彼のキャラクター次第で 特に今回私は、現場

での役割を大きく変えざるを得ない。のぞみのスピードに併走するかのように とにかく私は喋った。尋ねた。

さぞ ご迷惑だったことだろう。反省し感謝している。


京都駅に到着した。

制作部の田中たちが、駅まで出迎えてくれた。田中の運転するワゴン車に乗って、スタッフルームへと向かう。彼の運転

馴れした様子に、人心地付いた。

正直、不安だった。大勢の若者たちと一緒に、果たして仕事が出来るのだろうかと。ここ5年余り、私たちは若者と一緒に

撮影などしたことがなかった。もっとももっと以前は、私たち自身が若者だったわけだが……。

私の学生たちに対する(最大と言ってもよい)心配事は、彼らの運転技量の問題だった。

「なんだ。しっかりしたもんじゃないか。この分なら……」田中の運転は、様々な負の想定を 杞憂に過ぎなくさせるので

と、私に錯覚させた。

市内を北へ20分ほど走り、井土班の拠点に着いた。若者が大勢いた。

思えば贅沢な環境だった。スタッフルームとして、一軒家の撮影基地が用意されていたのだから。これまで拠点もなく制作

を続けてきた監督や私には、本当に夢のようであった。しかも、風情ある二階建ての町屋づくり。こんな落ち着いたスペー

スでミーティングがやれるとは……私は感無量だった。広さは さほどないものの 開放的な間取りは、たくさんの若者の

往来を可能にし、熱気が横溢した町屋は、何かが生み出される予感に満ち満ちていた。

リハーサルに時間を費やしたため、予定より一日遅れてしまったが ついに『蒼ざめたる馬』はクランクインした。総勢30

名のスタッフ、ちょっとした撮影隊だった。そして、気が付けば4日半の撮影期間など あっという間に過ぎて 惜しむ間も

なく撮り終わっていた。決して順風とは言えない撮影だった。いや、むしろハプニングやトラブルのオンパレードであっ

た。しかしそんなことはひとつも問題ではなかった。私には、全力で取り組む若者たちの姿と新品のスニーカーがあった。

それで充分だった。(「制作とは足下見つめたり」参照)

2003年11月17日 クランクアップ翌日、私たちは 帰路に着いた。新幹線に揺られながら、私はポスプロの思案でアタマが

いっぱいだった。どうすれば24日の20:50の上映までに 仕上がるだろう。あと7日間しかない。これはどう考えても厳し

い。「うーむ……」一人シミュレーションに耽っていると、隣席の井土が思い出したように口を開いた。

「実は、どうしても撮り足したいシーンがあるんやけど……」

……ラザロはまだ動き出したばかりだった。


BACK