宮田耕嗣

破綻の予感」

2003年11月某日、私の『蒼ざめたる馬』がスタートする。

その頃私は大学の映画サークルに所属する学生で、卒業後の事を考えてか、プロの映画現場や本格的な自主製作の現場に

幾つか参加していた。その年の秋、私は京都で撮影される日米合作映画に照明助手として携わっていた。自分は照明を希望

していた訳ではないのだが、重い機材を運ぶ人足として照明部に何度か付いていた。それは当然ながら、名ばかりの照明

助手である。ところがその日米合作映画の現場が終わったころ、その作品に参加していたあるプロデューサーから声をかけ

られた。

「京都国際学生映画祭で映画を撮る事になったが、照明を扱える者がいないらしいので手伝ってやってくれないか?」との

事だった。何だかよく分からなかったが、様々な現場の経験を積みたいと考えていた私は、その日米合作映画の時に学生

照明部だった森田と山田と共に参加する事を決意した。

記憶が非常に曖昧なのだが、代表の木村君か田中さんと先に一度会い、しばらくたってから京都の町家のスタッフミーティ

ングに呼ばれたと思う。そこには映画祭関係と思われる学生スタッフが大勢いた。初めての顔合わせになる私は、自己紹介

として、今回の役職と名前を力強く挨拶をした。「えー、どうも初めまして。照明助手を担当する宮田です。宜しくお願い

します。」

しかしながら、返ってきたスタッフの反応は予想外だった。ほとんどのスタッフが役職が未定であった。確かクランクイン

まで1週間もなかったはずだ。さらに全体的に元気が無かった。個人的に映画現場は体育会系の色が強いと思う。今まで

接した現場スタッフは、そういう人が多かった。だがここにいるスタッフの多くは、声が小さく、表情も暗く見えた。名前

さえ聞き取り辛い人もいたと思う。

今思えば、映画祭の仕事の疲れや、他の様々な要素が絡んでいたのかもしれない。自分が放つ空気が異様だったのかもしれ

ない。しかしその時、私は率直に感じた。“この現場は成立しない”と。帰路の車内では、この現場へ参加したのは失敗で

はないかとすら感じていた。

やがて自分の人生に大きく影響を及ぼすことになるとも知らず、そんなネガティブな感情から私の『蒼ざめたる馬』は幕を

開けたのであった。


「大人たち」

そもそも映画祭と無関係であった自分は、どこか他人事としてこの現場を捉えていた。ここに至るまでの経緯も、皆の気持

ちも知らないまま参加していた。そのせいか、雲行きの不安な現状を、自ら動いて打開しようとは思わなかった。

ところがその最初の顔合わせの数日後、転機が訪れる事になる。助監督の葛西氏が参加することになった。学生ばかりの

スタッフの中に、初めてプロが入ったのだ。現状を知った葛西氏は、この危険な状態を打開する為にオールスタッフによる

ミーティングを行い、的確にやるべきことを指示していった。率先して指揮を執る人物が現れたことで、現場が組織的に

動き出したように感じた。最初、破綻するのではないかと感じていた私の不安は和らいでいった。

その数日後、監督である井土氏が京都に到着した。葛西氏の力により何とか動きだしたとはいえ、この現状を知って井土氏

は激怒し、最悪の場合は中止されるのではないかと私は考えていた。ところが、井土氏は時折笑顔すら見せてくれるほどで

あった。そんな氏の懐の深さに安堵し、また一歩、現場成立へと踏み出したように思えた。

その後、プロデューサーである吉岡氏、カメラマンの鍋島氏が到着し、インも間近に迫った現場では、各スタッフの表情も

引き締まってきていた。照明部であった自分も鍋島氏との顔合わせに緊張したのを覚えている。当時の私は、カメラマン・

撮影の担当者というのは強面でマッチョな方が多いと思っていた。ところが鍋島氏は大変温厚な方で、物腰や口調も穏やか

で、私の不安と緊張を取り除いてくれた。撮影時には、自分で考えてやってみるよう言われる事もあった。明らかに鍋島氏

が指示した方が早いにも関わらず、私たちが成長するためにあえて考えさせてくれたのだ。また、吉岡氏も大変温厚な方で

あり、皆が嫌がるような面倒な事や、学生がやるべきような雑務までこなしつつ、全体を把握・管理し、時にはユーモアで

皆を和ませてくれていた。これまた、自分の知るプロデューサー像を大きく覆す姿であった。

そんな大人達の参加によって、現場が本格的に動き出したと感じた私は、気がつけば“この現場が成立しない”とは思わな

くなっていた。今となっては、浅はかな自分の推量を恥ずかしくも思う。


「4.5日と4年間」

動き出した現場の活気は、参加に消極的な気分だった自分を変えてくれた。自分の青臭い功名心から、大人達に認めてもら

いたい・評価されたいと感じるまでに。

スタッフが全て揃った現場では、インの予定が変更され、ロケハン・リハーサル日が1日設けられた。ロケハンで向かった

京都・亀岡の山奥で、ぬかるんだ地面上で役者のスタンドインを演じる、葛西氏の姿が今も目に焼き付いている。気合いの

違いを見せられた気がした。

やがて撮影が始まると、準備の不備もあってかトラブル・アクシデントが続いていた。しかしながら、投げ出そうとする

ものもおらず、みな作品の成立へ向けて必死に戦っていた。必死のあまり、死体役でも出演していたプロデューサーの木村

君は、ノーメイクで死体と見紛うばかりであった。初めは他人事とすら考えていた自分も、気がつけば実家の車を自ら持ち

出し、パート分けと関係なく、出来る限り全体の役に立てるようにと奮闘していた。撮影自体は4日程度にも関わらず、

ものすごく長くやっていた気がする。それだけ濃密な時間だったということだろう。ハードな現場ではあったとは思うが、

役者やスタッフの顔に疲労こそ浮かべど、最初に私が目にしたときの顔よりも良い顔に見えていた。数週間前まで他人で

あったスタッフが、ずいぶんと長くやってきた仲間のように思える。幾多の苦労を共に乗り越えたから生まれる関係だと

思う。

そういえば確か、後日の打ち上げでかなり酔った記憶がある。二日酔いしやすく、あまり酒は飲まないたちだが、本当に

楽しいときはついつい飲み過ぎてしまう。こんな風に酒が飲めるとは全く最初は想像していなかった。

あれから4年ほど経ち、現在東京で働いている私は、その後の2作品には参加していないのだが、今でもスピリチュアル・

ムービーズのメンバーを中心としたスタッフと交流が続いている。自分が参加した映画の中で、ここまでの交流が続いて

いるものは他にない。そしてこの関係は、これからも続いていくものだと思っている。

この現場に参加したのは、間違いなく失敗などではなく、私の人生の大きな財産となっている。


BACK