シナリオについて

井土 どうもご無沙汰しております。

澤井 こちらこそ。

井土 澤井監督と初めてお会いしたのは、京都学生映画祭の審査の席でした。最初「審査員をやらないか」という話を貰った

   時に、「他の審査員はどういう方ですか?」って聞いたら「澤井信一郎監督です」「えっ、それで俺なの?」って。

   ちょっと僕には肩の荷が重過ぎるような感じでした。というのも『野菊の墓』とか『Wの悲劇』とか、自分が中高生の

   頃から見てきて、現在にいたるまで圧倒され続けてきた、そんな方だったので、会うのもなんか緊張するなぁと思っ

   て。ところが、お会いしたら、凄い気さくな方で、僕みたいな自主映画やピンク映画をやって来たヤツともちゃんと

   話していただけて。で、僕からすれば本当に興味深いお話を聞くことが出来た。

   それで、今日は澤井さんに、僕が脚本を書いた映画と学生時代に撮った『第一アパート』を見ていただいたわけです

   が、学生映画を審査するという作業を一緒にやった澤井さんに僕の学生時代の映画を見られるって、これほど恥ずか

   しいこともないですね。今日はもう生きた心地がしておりません。

   ということで、澤井さん、僕がホン書いた映画も含めて、感想などございましたらお聞かせください。

澤井 瀬々作品、井土作品、合わせて3本見ましたが、3本とも面白かった。特に『汚れた女』は、作り方が僕とは正反対で、

   普通正反対だと否定しちゃうんだけど、否定できない良さがあって感心した。

井土 『汚れた女』と澤井さんの映画の作り方の違いについて説明していただけますか。

澤井 作り方が違うと思ったのは導入部から中盤に至る登場人物の紹介の仕方ですね。先ずAという人物が登場しますね。

   しかし、何処の誰かとは分からなく紹介される。続いてB、C、D、Eと、4、5人が登場するんだけど、それぞれが

   ブツ切れで、A、B、C、D、Eの相互関係は提示されない。それが中盤近くまで続く。そこまで引っぱられると、見

   ているこちらには、この映画は、この人物たちで一体何をやろうとしているのか分からなくなってくるんですよ。もち

   ろん中盤過ぎると人物たちが絡みあうんだけど、もっと前から関係を描いてもいいんじゃないか。前半の登場人物の

   ブツ切れは、自覚的なものではなく、シナリオの練りが足りないか、人物を関係の中でとらえていくという方法意識の

   欠如に思えてしまうんですよ。むずかしいことをやろうとしてむずかしくなるのなら仕方がないのですが、シナリオの

   練り不足や人間関係描写の方法意識の欠如が物語を混乱させて、わけの分からないものにしてしまうのは困る。じゃあ

   僕は導入部でどういうところに留意しているかとなるのですが、とにかく分かりやすく、そして流れがいいことを目指

   しますね。自作の「仔犬ダンの物語」で言えば、主人公の小5の女生徒が紹介され、その子の行動で母、父、兄が糸で

   引っぱられるように登場し、紹介され、その過程で母、父、兄と主人公の抱える問題が観客に示される。流れのよさを

   目指すのはシナリオだけでなく、撮り方でも、主人公が他の人物を引っぱり出すような一元的なカット割りやつなぎを

   するんですよ。どっちが良い悪いではなく、違いと言えば、そういうことですね。

井土 なるほど。それはすでにシナリオ上での問題で、誰で映画を見せていくかってことですね。

澤井 そうですね。今日の3本も「仔犬ダンの物語」も非常に小さな話ですから、小説で言えば一人称の視点で描くような、

   スムーズに流れる導入が映画としては心地いいですね。紹介すべき人物が4人いて、それらの人物と抱える問題、つま

   り現状ですね、スムーズに提示するのがシナリオの練りで、その流れかたの見事なところがシナリオライターの腕の

   見せどころなのに、そんなことにはとんと無頓着で、Aだ、Bだ、Cだ、Dだと乱暴に導入してくる人がいて、しかも

   それが導入部の流れるような映画的快感を阻害しているとは思っていない。今日ここに集まった方々の中にシナリオ

   ライターや映画監督を目指している人がいたら、シナリオ読んだり、映画を見たりするときに、内容だけを読んだり

   見たりするのでなく、シナリオの書き方、撮り方つまり作法の違いにも目を向けるといいですね。きっといい勉強に

   なると思います。

井土 確かに、おっしゃる通りで、澤井さんが闘ってこられた映画の場では、僕らのようなやり方は許されないと思います。

   しかし、その上で、反論させていただくと、現代社会の関係のあり方は家族も含めてバラバラで、統覚のようなもので

   束ねるのは非常に難しい。そういうバラバラで無関係な人間たちが偶然出会ってしまい、殺したり愛したりする。

   『雷魚』や『汚れた女』ではそういうことをやりたかったというのはあります。ただ、それをもっと分かりやすく巧み

   な語り口でやれたのかもしれないとは思います。それから、僕の場合は……確立された方法を壊すっていうのも大事だ

   と思ってるんです。だから、僕の立場を表明すると、やっぱり自主映画の時は、何か無茶なことをやりたい、無茶な

   ものを作りたいと、いつも思ってたんですよ。ところが、ピンクのシナリオとか書いていろいろ、澤井さんから見れば

   それも自主映画だと思うんですが、その中で曲がりなりにも、ちゃんとしたドラマを書かなきゃいけなくなって、勉強

   したんですね。で、野田高梧の『シナリオ構造論』というのを僕は熟読したんですけど、独創性の基礎っていう章が

   あって、「基礎のないところに独創性はない」っていう、それはピカソやマチスにしたって、基礎的なデッサン力が

   なければ、あんな絵は描けないのだっていう一言があって、それで自分の立場が随分変わった。それまでの思い上がり

   が完全に打ち砕かれた。だから、澤井さんがおっしゃることは本当にその通りだと今は思える。ただ、その上でどう

   壊すかっていうことは、僕はやっぱり模索したいんですけどね。

澤井 僕は映画作りに関しては保守な人間ですから助監督の頃から、先輩たちのシナリオや演出をうんと勉強して吸収しよう

   としてきた。壊したり否定するより真似したり吸収するのが一番だと思ってきましたね。今でもそうですね。学ぶこと

   はたくさん残ってますからね。撮影所の映画作りを是とし、それを破壊じゃなく改良でやってきたということですね。

   壊すというのは大変な決意とエネルギーがいるから、どこか乱暴になるのは仕方がないですが、壊したり否定したり

   することと独りよがりになることは別だから、そこは気をつけないとね。

井土 違いますね。

澤井 しかし壊しかたの模索は続けてやってもらいたいね。君たちの模索を見て、いいものは学びたいからね。そういう意味

   では、今見た「第一アパート」は方法意識を強く感じたね。壊そうとしたものはいろいろあるだろうが、一番強く感じ

   たのはストーリーに頼らないということ。商業映画の住人の僕らにはこういう発想はできないからね。どうしても

   ストーリーを考えてしまう。ストーリーの中に、或いは向こうにテーマがある。テーマのためにストーリーが邪魔だと

   はなれない。「第一アパート」は自分に引っかかったところを、自分のうちの井戸だけを掘ってね、その井戸の水が

   他家に流れることは考えない。そんな人間への作者の目が面白かった。

井土 はい。とりあえず、澤井さんのご感想が聞けて、少し楽になりました。ありがとうございます。


演出ーリズムとカタチ

井土 最初から作り方の話になりましたけど、今日は僕はむしろ澤井さんからいろいろお聞きしたいなと思ってまして。で、

   例えば、僕のような後発の人間が澤井さんの撮られた映画を見ると、まず、何て言うのかな、もちろん澤井信一郎って

   いう監督はいるんですけど、その澤井信一郎っていう名前ももうどうでもよくなって、あるいは出てる役者もどうでも

   よくなって、「あっ、映画だ」と思うしかない瞬間があるんです。それはもう澤井さんが撮ってるから見ているという

   意識すら忘れちゃうような瞬間がある。それはどういう感覚かっていうと、なんかその、今の映画、日本映画から、

   失われつつあるようなものがここにあるっていう気が僕はするんです。澤井さんのどの映画を拝見しても。それは何な

   んだろうって思って、京都でお会いしてから、澤井さんの作品をずっと見直したんですね、ビデオなんですけど。僕は

   それらを、当時リアルタイムで、例えば中学生とか高校生の頃には、アイドル映画として見に行ってたわけですね。

   で、その失われつつあるものは何なんだろうって思うと、昔の撮影所華やかなりし頃の映画を見た時に感じる感覚に

   近いものがあって。それは何なんだろうっていうことを、ずっと考えてたんですけど……やっぱり演出、芝居だと思う

   んですよ。例えば、僕らがあるフルサイズで芝居を撮ろうとする。そこで、僕らついナチュラルなものを求めるし、

   役者もすごいナチュラルなものをやろうとするんですよね。何かこう、「あぁ、疲れたね」「うん」「あぁ、どうしよ

   う」みたいな芝居ですね。何かそれが、割合自分の日常と地続きになっているような撮り方の作品が多いですし、もう

   役者の身体もそういう感じになってきているような気がするんですよね。それに対して、やっぱり澤井さんの画面、

   あるいは演出というのは、確実に作られている。人工的なわけです。人工的だから、冷たいとか、わざとらしいとか

   そういうことでは全くなくて、それが映画の芝居だし、映画の画面だと痛感させられる。これはやはり撮影所経験と

   いうものが、澤井さんの演出を作らしめているのか、何かその辺の秘密を僕は後発の人間として吸収したい。単に話

   聞くだけで、吸収できるものかどうかはわかりませんが、ともかく知りたいというのが今日澤井さんにお聞きしたい

   最大のテーマです。

澤井 むずかしい質問ですから、やさしく考えていきますね。「疲れた」で設問しましたが、言い直せば日常ですね。日常と

   作られた日常の違い。撮影所経験ということを言われましたが、自主映画経験と較べてみるとその辺のことが分かって

   くると思う。撮影所で「疲れた」という日常シーンを撮りますね。ステージにセットが組まれ、家具、小道具が飾ら

   れ、たくさんのライトが点き、衣装を身につけ、メークアップした俳優たちが「疲れた」シーンを演じるわけですね。

   俳優は明らかに作られた場での日常の「疲れた」を演じていて、本物の日常を横すべりさせて、本当に「疲れて」いる

   のを見せているのではない。自主映画で「疲れた」日常シーンを撮りますね。セットではなく、友だちのアパートの

   部屋を借りて、飾りの家具もあり物で間に合わせ、友だちのスタッフの前で、友だちが役者になり、役は学生かフリー

   ターで、衣装は自前で、ライトも殆どなく、自分たちの日常そのままを映画のワンシーンに横すべりさせ、そこで「疲

   れた」を撮るわけですね。日常そのままで作られたアパートの一室でないそこでは、演技も「日常」そのままを横すべ

   りさせないと却って違和感を感じてしまう。演技する「疲れた」は結果浮いてしまう。「疲れた」演技も、自分たちが

   疲れたときに普段する脱力のポーズや溜息まじりのかすれ声で疲れた風のセリフ回しをすればよく、つまり日常そのも

   のを友だちの部屋のカメラの前に持ち込めばよく日常を再構築し、演技で作った「疲れた」じゃなくていい。シナリオ

   も「疲れた」日常の裏側に深い非日常を秘めたものでもなく、単に「疲れた」と言わすだけの内容だから、友だちの

   学生やフリーターの日常、つまり「地(じ)」でやってくれれば、演出側もこと足りる。ちょっと典型的にまとめ過ぎ

   たが、撮影所と自主映画の外側の条件の違いの積み重ねが、そのまま「ナチュラル」か演技で作った「ナチュラル」か

   の別れ道になっていると思うね。でもね撮影所で育てば、誰でも「演じられた日常」を演出できるかというと、必ず

   しもそうではない。いいお手本の監督にめぐり会えて、学び、吸収できるかどうかだね。僕の場合は、マキノ(雅弘)

   監督に出会って、マキノ流に作られた「ナチュラル」を吸収したと思うね。

井土 なるほど。

澤井 マキノさんは作る監督です。自分で書き直す独特の言いまわしのセリフを独特の節まわしで言わせる。「ナチュラル」

   とはほど遠いセリフまわしです。いくら演技で作った日常的な言いまわしとしても、自主映画的日常そのままから見れ

   ば笑っちゃうくらいの不自然な「ナチュラル」だと思う。しかしそこがマキノ節で、マキノの映画世界ではその節まわ

   しがそれ以外ない自然さでおさまっている。「日常」や「ナチュラル」の秘密や極意はここにあるんだね。「日常的」

   や「ナチュラル」は監督の提示する映画世界の中で「日常的」や「ナチュラル」であればよく、外在的な日常生活は役

   に立たない。ここがポイントですね。映画の中の「日常」や「ナチュラル」は作らなきゃいけないんです。作った「ナ

   チュラル」が「ナチュラル」に見えれば、それが「映画のナチュラル」なんだね。マキノさんの話をしていて、自分を

   引きあいに出すのはおこがましいですが、僕の場合、非常にハキハキとセリフを言わせます。ちょっとうつ向いて、

   小声でボソボソなんて、すねたセリフまわしは一切させない。それでも「ナチュラル」に見られるとすれば、それは僕

   の映画世界の中で、僕のハキハキセリフが「ナチュラル」におさまっているということです。セリフの言い方だけで

   なく間合いもそうです。よく編集で一コマ切るか二コマ切るかで悩んで徹夜したなんて人がいるけれども、こういう人

   はセリフまわしに自分のリズムを持ってない駄目な人ですね。監督は固有のセリフのリズムを持つべきで、そのリズム

   がしっかりしていれば、カットつなぎでセリフをつなごうが、ワンシーン、ワンカットでセリフを言わせようが、リズ

   ムは変わらない筈だからね。ワンシーン、ワンカットで会話シーンを撮っているときは、対話者の間合いを監督のリズ

   ムで指示しないと、未編集のカットつなぎみたいにリズムのないものになってしまう。編集は編集室で行うものではな

   く、撮影現場で始めるものなんですよ。いろいろ言ったけど、でも結局はシナリオだね。シナリオがどれだけ日常を

   深く掘り下げているかですね。

井土 なるほど。まず台本が前提にあるということですね。で、僕ら、伝承として伝説としてしか聞いてないですけど、例え

   ばマキノ雅弘監督は全部まず自分で演じて見せたっていう伝説がありますけど、澤井さんもやはり、そのマキノ流とい

   うか、現場で役者の芝居をテストで見る前に自分で演じて見せたりするんですか。

澤井 撮影現場で演出側がまずすることは、人物の配置と動きだよね。俳優さんたちで、時には助監督やスタッフにスタンド

   インしてもらって、動きをつける。動きが決まればあとはセリフ。ここからが普通にいう演技指導になるのだが、まず

   僕がセリフを言ってみせる。それはテンポ、リズム、強弱をのみ込んでもらうためで、セリフまわしの勘所を見せるん

   ですよ。とにかく、こちらの指定したテンポ、リズム、強弱でセリフが言えれば、それで合格なんです。アイドルたち

   は動きは正確です。問題はセリフですね。僕の場合、セリフの指導は口写し。僕のテンポ、リズム、強弱をそのまま

   オウム返しさせる。つまり形を徹底的に教え込む。感情なんてものは二の次です。

井土 それをお聞きしたかったんです。

澤井 「感情がこもってない」とか「もっと感情をこめて」と監督が俳優に注文しているのをTVのメーキング番組やビデオで

   見ますね。大事なことは、どうやったら、どういうセリフまわしをしたら感情がこもって見えるか、聞こえるかです

   ね。俳優が「ここは母が死んだシーンだから、俺は、私は悲しいんだ。よーし、悲しいと思うぞー」と心の中で思えば

   悲しみの感情をこめたことになるのか。感情のこもった悲しいセリフまわしになるのかですよね。そんな主観的な感情

   の思い込みが何の役にも立たないことは撮影経験者はよく知っていますね。相変わらず棒読みで恥ずかしいセリフまわ

   しだものね。じゃあ、どうすればいいか。そこで「形」が出てくる。セリフのテンポ、リズム、強弱を形で教え、形が

   感情を表現することを学ばせる。だから監督は感情を要求するのではなく、感情を表現するための形や技術を教えなけ

   ればいけないことになる。そのためには、監督自身が形や技術を知っていなければならない。そんな時に役立つのが

   先輩監督の形や技術で、これは否定したり壊したりしないで、一旦は学んでみた方がいいと思う。その後は受けついで

   も壊しても自由ですけどね。じゃあ、僕はどうしてるかといえば、いくつかのポイントに留意していますが、一つだけ

   言いますと、セリフにブレスつまり休止ですね。それを入れるということです。「今日は天気が良くて気持ちがいい

   わ」というセリフがあるとしますね。未熟な俳優たちは、これを一息で言ってしまって、どうしても棒読みの一本調子

   に聞こえる。そんな時「気持ち良さそうな感情をこめて」等と注文しないで、「今日は」で切り「天気が良くて」で

   切り「気持ちがいいわ」とブレスを入れさせる。そうすると棒読みでなくなり、2ヶ所のブレスが節となり、テンポ、

   リズム、強弱のある「感情のこもった」セリフまわしとなる。これは大人、小人、玄人、素人の誰にでも通用するセリ

   フの指導術です。


端正さとエロス

井土 お聞きしていると非常に明快でよく分かるんですけど、なぜこの画になるのか、この芝居を作れるのかっていうのが、

   僕はまだ分からない。僕の感想というか、感じていることを述べると、澤井さんの映画で特に端正な芝居というか、

   凄いスッとした役、二枚目の役っていうんですかね、それはほんとに澤井さんの演出方法でピタッと嵌るんですけど。

   かと言って、蓮っ葉な役がうまくいっていないかというと、やっぱりその方法論で蓮っ葉になっている。あるいは

   不良っぽく作れているというのがあると思うんです。それはやっぱりリズムだと思うんですけど。

   それで、僕今日ここに来る前に滝廉太郎の『わが愛の詩 滝廉太郎物語』をずっと見てたんですけど、キャラクターも

   含めて基本的には端正な設定の人物が多い。音楽学校の、ある種金持ちの。そして、映画は流麗に展開していく。とこ

   ろが、僕はもう一つ澤井信一郎の最大の特徴として、いつもグッと来るというか、素晴らしいと思っているのは、その

   端正な形でシーンが芝居が進んでいって、突然エロティックな部分が出て来る、官能性が噴出する瞬間がある。それ

   は、裸になるわけじゃないんだけど、あるエロスがこう濃厚に出て来る。僕はそれが実は澤井さんの映画で一番好きと

   言えば、好きなんですよね。例えば『滝廉太郎物語』で言えば、鷲尾いさ子が滝廉太郎とピアノが上手く弾けた後に、

   滝廉太郎がこうパッと外に出て行くと、ちょっと咳き込んで、鏡の中で髪をほどく、今までこうグッとひっつめていた

   髪を。それだけで「あっ、もうソノ気なんだな」っていうのが感じられる。これは非常に上品なやり方だと思うんです

   よ。同じような形で前半に、藤谷美紀が櫛を髪に挿してもらって、水溜まりに顔を写す。あれは実に爽やかなお色気だ

   と思うんです。そういうのが澤井さんの場合、実に上品な形でやられる場合もあるし、あるいは中学とか高校の頃見て

   ドキッとした、薬師丸ひろ子の『Wの悲劇』であるとか。あるいは『早春物語』の原田知世が林隆三にブラウス一つで、

   ラブホテルで、「お母さんとやったことと同じことをして」と言って迫るシーンがある。ああいう時に出て来る、その

   エロスの凄さ。端正なだけではなくて、確実にそこにエロティックなものがあるっていうのが、僕は澤井さんの最大の

   特徴であり、僕が一番尊敬し、好きなところなんですけど、その辺のところはいかがですか。

澤井 エロティックなところは後にして、端正というところから始めましょう。僕は自分の映画を端正と言われると大変嬉し

   いですね。常々端正にしようと思ってるからね。そのためにいろいろと心掛けてます。感情を押しすぎない。りきみ

   返った顔のアップを重ねたり、我を忘れた熱演をさせない。アップに寄るのはぎりぎり我慢して、フルショットをメイ

   ンのサイズとして客観的に冷えた画面にする。アップはどうしても主観的に熱くなってしまうからね。演技でいうと

   ね、僕の演技論の基本は「少し演じて多く伝える」ということなんです。いけないのは演りすぎること。演りすぎは

   下品です。100やれば満足なのに、あれこれ小芝居したり、熱演したりで130やる人がいますね。アメリカで言えば、

   ロビン・ウィリアムズやメリル・ストリープです。この人たちはなるほど達者ですが,実に下品で不快です。「多くを

   演じて役者のおごりしか伝えない」品のなさです。130演ずるのは100にするのは30減ですから、結果70と思われるで

   しょうが、もっと減です。最初からの70は不快ではなく、うまくはないけど端正です。この「うまくはないけど端正」

   が大事で「うまいけど下品」は端正の敵です。『第一アパート』に出演していた吉岡君ね、彼は「うまくはないけど

   端正」でしたよ。見ていて気持ちが良く好感を持ちました。とにかく端正にするには何事もやりすぎを避けるという

   ことですね。さてエロティックですが、僕はエロティシズムは下手だから、なるべく避けようとする。描くときは、

   日常の延長線上でエロティシズムを捉えようとする。言われたように服を脱ぐとか、束ねた髪を解くとか、或いは女性

   が靴下を脱ぎ白くきれいな5本の足の指が出てくるとか、日常誰もがする行為行動の中でほんのちょっとエロをやろう

   としますね。間接描写に逃げちゃう。直接描写の下手を自覚していますからね。

井土 いや、そんなことないと思いますよ。

澤井 僕が興味を持つのは女そして女体へのフェティシズムなんだけど、きっとベットシーンじゃないんだろうと思うよ。

   僕もね、君らのようにうまく撮れれば撮りたいよ。ベットインから終わるまでの1時間40分位を延々と。それで1本とし

   て完成している。でも下手だから駄目だね。

井土 何かはぐらかされちゃったような気がするな。もう少しエロスについてお聞かせください。僕なんか中学の頃でしたけ

   ど、松田聖子、そんなに好きでもなかったけど『野菊の墓』を見に行く。すると、当時、聖子ちゃんカットの松田聖子

   がおでこを丸出しにしてひっつめてる。もう、それだけで何か生々しさのようなものをスクリーンから感じてドキッと

   するわけです。それも今から考えるとエロティシズムだと思うし、今だったら、やっぱりモーニング娘。の『17才』

   です。『17才』も本当にいい映画でした。主人公が二人いて、藤本美貴の方が蓮っ葉な役ですよね。で、彼女の役は

   高校生なんだけど男を知ってるのかどうなのかっていう非常に微妙な雰囲気で。義理の父じゃなくて、あれはお母さん

   の……。

澤井 お母さんの愛人だね。

井土 愛人にこう迫られたりとかっていうこともあって、ちょっと崩れた感じを出してる。見ていて本当にドキドキする。

   何だろう、その辺の僕は澤井さんのエロスっていうと難しいけど、もっと言葉を悪くすると、スケベさというのかな。

   そういう「これはたまらないなぁ」という演出を、僕はそこここで感じるんです。

澤井 モーニング娘。のメンバーって大体子供っぽいよね。だから色気がないか、あっても子供の色気だね。藤本美貴に初め

   て会って驚いたんだよ。大人なんだね。当時18才だったんだけど、大人の色気なんだよ。物の言い方や動作もそうなん

   だ。何か人生に疲れたという感じ、もっと言えば、男と一晩過ごしてきて、寝起きっていう退廃的な感じが漂ってるん

   だよ。それでいてこちらが受ける感じがとても清潔なんだね。よっぽどしっかりしていないと男は狂いそうだね。そん

   な娘だったね。

井土 ああ、元が。

澤井 そう、元が。それでね、腕白少年が「パンツ見えたぞ。恥ずかしくないのか」っていうところがあるじゃない。そうい

   うシーンだから、川っぷちで腰掛けているとき、両足をちゃんと広げないと見えないからというと、すっと広げるんだ

   よ。それで、テストの合間に少年をからかって「お前な、パンツなんか絶対見えないよ。その上にスパッツはいてるん

   だから。ちっとも恥ずかしくない」なんて笑って言ってる。魅力のある娘だったね。

井土 なるほど。藤本美貴は演出やシナリオの設定以上に地の魅力を持っていたと。澤井さんはアイドルの人たちとずっと

   やってこられて、一緒に芝居を作っていく上で印象に残っている方はいらっしゃいますか?

澤井 薬師丸ひろ子や原田知世は、やっぱり映画から出てきた娘たちだから根性が違ったね。後藤久美子も僕との仕事が映画

   デビュー作だったけど腹は座ってたね。

井土 澤井さんはいわゆるアイドル映画をやられて、その後ある意味歴史的な大作という方向に行かれます。で、今のとこ

   ろ、最新作として『17才』っていうアイドル映画がある。澤井さん個人としては、どっちが好きか嫌いかって話じゃな

   いと思いますけど、やってて面白いのはどっちですか。

澤井 やってて面白いのは『17才』だね。

井土 やっぱりそうですか。

澤井 僕は今60台半ばだけどね、僕の中の17才の少女たちはいきいきと魅力的だね。現実の17才とのつき合いはないけど、

   僕自身が15、6才から今日まで、ずっと抱き想像で造形してきた少女像はフレッシュですね。僕の映画の中の17才は僕

   だけの17才で、世の中の17才の平均じゃないからね。物の言い方、まとめれば生き方だね。それを提示して観客と勝負

   するわけだからね、映画を作るということは。17才、青春が好きだというのは、僕が大人が分からない、大人が描けな

   いと自覚しているせいだと思う。僕だけじゃない、日本映画は総じて大人が下手ですね。60才の重役、59才定年間際の

   大人、55才の刑事、50才の課長等と設定はするものの、年令が中高年に設定されているだけで、中身はガキだものね、

   日本映画は。ヴィスコンティの映画、例えば『家族の肖像』なんか見るとね、ああ、大人がいるなあと感動するね。

   大人が分からないから17才の方へ行っちゃうんだね。


美は諧調にあり

井土 少し話を戻しますと、さっきの例えば、端正さ、やりすぎよりはまだ物足りない方がいいっていうお話でしたが、例え

   ば澤井さんは、役者に考えさせて動かすのか、それとも動きも全部もう決めちゃうんですか。

澤井 セットにしろ、ロケにしろ、人物の配置と動きは画面設定の第一歩で、これで決まることが多いから自分で考え、指示

   しますね。一番頭を悩ますところだね。俳優がセットやロケ現場に来るのは撮影当日だから、あらかじめ立つ位置や

   動きは考えられない。それは演出の仕事だね。その場で動いてみて、動きがちがうとか、動きにくいとかの意見が俳優

   から出てくることはありますね。その時は話し合う。さっきの端正に話を戻すとね、結局僕は「美は乱調にあり」と

   思ってないんだね。深作(欣二)さんね、それから『火宅の人』の檀一雄さんなんかが「美は乱調にあり」と言ったり

   すると、あの人たちは乱調に人生を生きた人たちだから、なるほどと納得するんだけど、並の人たちが「アウトロー」

   だ「乱調」だなんて言って、言行不一致の乱調を画面で見せると「ニセモノ…」と腹が立つんだよね。僕は自分が乱調

   に徹せられないのを知ってるから「美は諧調にあり」と開き直って、諧調の中のほんの少しの乱調にドラマを見つけ出

   しているんだね。そんな自覚がひょっとして端正に影響しているのかもしれない。

井土 そうか、諧調のドラマが徹底されているから、そこに現れるほんの少しの乱調が亀裂となって、例えばエロスとして

   噴出する、ということですかね。そこに、僕が澤井さんの映画に感じるエロスの秘密があるような気がしてきました。

   もうそろそろ時間なので、最後に『神聖喜劇』についてお聞きしたいと思います。最近、荒井晴彦さんが、大西巨人さ

   んの大著『神聖喜劇』をシナリオに脚色されて、『シナリオ 神聖喜劇』が出版されました。恐らくあれを切り詰める

   形で映画化を考えておられると思うんですけど、それについて何かお聞かせください。

澤井 『神聖喜劇』を説明しておきますね。大西巨人という小説家が完成まで25年をかけた400字詰原稿用紙4700枚の小説な

   んですよ。九州五島列島にある連隊に入隊した教育召集兵たちの90日の教育期間の話なんです。今はなくなりました

   が、以前「新日本文学」という左翼系の文学雑誌があって、その 1960年10月号に『神聖喜劇』の連載の第一回が載っ

   たんです。

井土 澤井さんは同時代的に読まれてるわけですか。

澤井 そう。僕は当時大学4年生で「群像」と「新日本文学」を定期購読していた。1960年10月といえば「60年安保」で

   岸(首相)に敗けた直後で、当時大学の自治会で執行委員をしていた僕は敗北感でヘナヘナしていた時期でした。そん

   な時期に読み始めた小説だった。その4700枚の小説を荒井(晴彦)君がまず750枚のシナリオにした。第一段階として

   は映画用シナリオというよりは、レーゼ・シナリオ、つまり読むためのシナリオとしたわけです。次の段階としては、

   これを短縮して映画用シナリオにする作業が残っているのが現状です。

井土 『人間の條件』みたいに何本かの映画にするということは考えていらっしゃるんですか?

澤井 話は『人間の條件』と違い、戦闘も外地もない。五島列島の連隊での新兵教育90日間に起きるさまざまで、大西さんが

   モデルと見られる新聞記者を中心とした新兵たちの面白い抵抗の日々を描いている。原作、シナリオの一読を勧めま

   す。本当に面白いですよ。映画は『人間の條件』のように6部を3本に分けないで、一本にまとめようと思っている。

   プロデューサー、脚本家、監督はその線で合意している。僕としては、登場人物にユニークで癖のある人物が多いから

   吉本興業の芸人そして芸人志望の人たちのユニットでキャスティングしたら面白いと思っている。

井土 まだいつどう動くかは具体的には決まってないんですね?

澤井 そうです。今のところまだ具体的に動き出し得ていません。天皇制、被差別部落の問題が大きくかかわってくる九州の

   連隊の話です。日本映画はタブーとしてこうしたテーマを避けてきましたから、僕としては、どんな苦労をしてもやり

   たいと思ってます。

井土 なるほど。様々な困難はあると思いますが、映画の完成を楽しみにしております。今日はお忙しい中、本当にありがと

   うございました。


BACK