井土 今、『ねじ式映画』を拝見したところですが、僕が以前見たプリントと比べると非常に綺麗なプリントで、何か別の

   映画のように思えて驚いています。また、以前「思想読本 1968」という本にこの映画のことを書いた事があるのです

   が、記憶に頼って書いたために,事実誤認があったことも分かりました。※

   それで、今日は僕の方で『レフト・アローン』に絡めて、いくつか岩佐さんにご質問していくという形で進行していき

   たいと考えております。

   まずこの『ねじ式映画』は「1968年」という年号、日付から始まります。『レフト・アローン』という映画も1968年と

   いう年号に象徴されるような現象、そういうものにアプローチするところから出発した映画でした。1968年当時という

   のは学園闘争、街頭闘争があちこちで勃発していて、カメラを向けようと思えば、激しいもの、面白いものがいっぱい

   写ってしまう時期だったと思うのですが、敢えてそういうものにカメラを向けないでこういう映画を作ろうと思われた、

   そのあたりのモチーフからまずお聞きしたいんですが。

岩佐 ちょうど68年というのは日本だけでなく、世界中が一つの政治の季節、最も激しく動いた時期なんですね。動いた時とい

   うのは人の心もそれによって揺さ振られ、踊り、今日この映画をご覧になった通り、男達は特に踊るわけです。時代その

   ものがゆれ動いている、そんな中で記録映画を撮るとなると、当然そこには東に行けば三里塚があり、西に行けば水俣が

   ある。これは私の最も親しい友人達が実際にやった事に関わる事を言っている訳ですけれど、比喩的に,象徴的に言って

   もそういうことになるわけです。闘争が生じている場所に行って記録映画を撮る。そういう場所に行っても、ただカメラ

   を回していればいいものができるわけではない。映画人としての強靭な行動力と優れた方法論をもってして初めていい

   映画ができあがるわけですね。

   ただ映画を始めたばかりの僕としてはそんな自信がない。あの闘争の渦のなかで映画を自立させることができるだろう

   か? そもそも自分の足元、いったい映画を撮ろうという事自体が何なのだろうか? 政治の季節の中で、そういう所に

   自らを置こうとする自分は何なのだろうか? 映画を作るという行為は、非常にあやふやな事ですね。本当にやむにやま

   れず戦っている水俣の人々や三里塚でいきなり土地を没収されていく人々……そんな人々から見れば外からやってきて

   映画を撮るという行為はどのように映るものだろうか? そんなことばかりが頭をよぎるのですね。

   そこでぼくは自分の足下を見ようとしたのですね。映画作りは労働といっても、いわゆる<労働>ではないですからね。

   好きな事をやっているというのは、やっぱりあるわけです。こういうあやふやな立脚点しかない自分が、なぜ映画をやろ

   うとしているのかを問う映画を作ろう。そのことによって自分の足がかろうじて地につくんじゃないかという思いが非常

   に強くなったのですね。芝居をやっている連中も,大きな意味でやはり同じような場所にいる。こういう人達の中で自分

   を試していく。これが「ねじ式映画」になっていったともいえますね。

   それから僕がやりたかったのは、闘争や革命の映画を作るのではなく、映画そのものを革命したいという思いはものすご

   く強くありました。最初言った自分の足下という事と今言いました映画の革命という事、この二つ、それは同じ事かもし

   れませんが,そこに意味を持たせる事によって、自分がやっと立っている位置を見つけられるかもしれない、こう思った

   のでしょうね。

井土 革命の映画を撮るのではなくて、映画の革命をやりたかったのだと。確かに『ねじ式映画』には、見せ掛けの過激さや

   アバンギャルド性ではなくて、映画を作っている人間として根底的に考えなければならない問題が捉えられていると思う

   のですが,映画の内容に踏み込む前に当時の状況的なことや岩佐さんご自身の状況との関わりみたいなことについて少し

   お聞きしたいと思います。

   今回岩佐さんから資料をお借りしたり,独自に調べたりして、一つ聞いてみたいと思ったのは自主製作、自主上映の運動

   史的な側面についてです。例えば『ねじ式映画』が作られた当時の資料を読んでいると、まず自主製作、自主上映あるい

   は独立プロの運動や作品という事で最初に名前があがるのは『ドレイ工場』それから『若者たち』です。これらは広く

   言って旧左翼,日本共産党やあるいはその関係者が作った映画で、まあ日本共産党主導の製作・上映運動だったと考えら

   れる。おそらく岩佐さんは実年齢としては旧左翼であってもおかしくないご年齢だとは思うんですが、映画を作り上映し

   ていく上で、既成の左翼的な在り方に対するカウンターというか、ニューレフト的なメンタリティーというものが、岩佐

   さんの中にあったのか。あるいは映画とは無関係でも結構ですので、よろしければご自身の体験みたいな所もお聞きした

   いのですが。

岩佐 これは非常に個人的な質問ですがお答えします。僕自身は新左翼との出会いというのは鮮烈にありました。

井土 もし差し支えなければ、お話いただけますか。

岩佐 ちょうど共産党が火炎瓶闘争で逆に大変痛手を被って、どうにもこうにもならない状態の時に僕は大学に入った。そうい

   う中で、しかし、マルクス主義というのは共産党しかないというような、一枚岩的な時代であったわけです。その共産党

   が六全協という、突然軟弱な形で転換してくる。そういう時期にいたわけです。そんな中で一番大きい事件は1956年、

   ハンガリア革命というのが起こるわけです。このハンガリア革命というものが一体何であるのかというのは、当時の青年

   達にとって、大変大きな意味を持った。とにかく共産党は正しいし,それしかないと思っていたこと自体が初めて危うい

   ことだと気付き始める。つまりこの事件はどうみてもソビエトの権力というものが、ハンガリアの民衆を大量に殺戮した

   としか言いようのない事件であったわけです。この一つの体験を通じて、それ以前からこの辺のことを探求していた人達

   が、新左翼を形成していくわけです。僕はそういう人達との具体的な交流もあったし、世代としては、むしろ旧左翼の

   終わりに近いんですが、非常に初期からそういうものとのつながりがあった。僕は政治活動をやっているわけではないん

   だけれども、こういう人たちとの交友関係が強かったのですね。この点では、後に「青の会」を形成していくいわゆる

   岩波映画の友人たちと少し時間差があったような気がします。岩波で出会う人達というのは旧左翼に属しながらも、これ

   じゃだめだという直感からそこから離れ新左翼にも関心を示し始める、そんな過程にあったように思います。

井土 岩佐さんからお借りした資料の中に、1969年の「朝日ジャーナル」に掲載された「我ら映画を作るとき」という記事が

   あって、先ほどお話のあった三里塚闘争を撮った小川紳介、水俣病の問題に取り組んでいく土本典昭、あるいは『死者よ

   来たりて我が退路を断て』のグループびじょん、東陽一、司会が佐藤忠男でそれに岩佐さんというメンバーで座談会が

   行われている。この座談会のサブタイトルが「新左翼としての独立プロ運動」で、内容もいかにして自分たちはこれまで

   の旧左翼の映画活動を乗り越えるかということが話されている。これは今読んでもめちゃくちゃ面白い座談会ですが、

   ともかく、そういう新たな独立プロの潮流というのがあって、そこで岩佐さんもご自身の立ち位置を見定めようとされて

   いたということだと思うんですが、ただ、『ねじ式映画』を撮られた時点では、土本典昭さんはまだ水俣は撮ってない

   わけですよね。

岩佐 撮っていないですね。

井土 小川紳介は三里塚闘争を撮り始めたばかりですね。例えば小川紳介という人は、高崎経済大学に行って闘争を撮り、羽田

   に行って羽田の闘争を撮る。一番熱い所にどんどん突っ込んでいく。そして三里塚という場所を見つけていく。そういう

   中で岩佐さん自身は立ち位置というか、そういうものをどうするべきかという事を考えられて、この『ねじ式映画』に

   至っていったと。

岩佐 そうですね。それとこの映画がどういう関係になるか、といわれても映画しか残っていないわけですが……一つ自分の

   中で思っているのは、『ねじ式映画』というのはもっとも1968年的な映画ではないかということです。つまり新左翼

   形成の時代から全共闘運動に流れていく過程で、そういう勢いが持っていた思考の形態というものがあるわけですね。

   それとこの映画の方法というものが,非常に近いものを持っていたのではないか、と思うのです。あの時代の突出した

   現象である学生運動、あるいは最も激しかった三里塚、こういうものが1968年から70年にかけての映画として残ってい

   くのは当然です。ぼくのはそうした事象を扱っていないけれども、しかしその内在している1968年の方法,政治を含め

   た方法というものに、知らず知らず大変忠実だったのではないかと思えるんですね。

井土 この映画を見ていると、ある種のリミットみたいなものを感じるんです。失礼を承知で言わせていただくと、最初68年の

   熱気みたいなものを期待して見ていると、前半はちょっと退屈するんです。ところが、次第にスクリーンに出る分数、

   尺数というものを見ながら、これはカメラを廻している時間そのものを観客に共有させようとしているんだなという事が

   わかってくる。そうすると、当然、これは編集という行為を徹底的に排除している映画なんだということが見えてくる。

   構成といえば、本来は最後に撮られた映像を冒頭に持ってきているくらいですね。この映画の全部がフィクションではな

   いということを信じていうならば、日付ごとに、ある尺数だけ廻して、それを棒繋ぎにしていくんだ、という作り手の

   明確な意思が確認できる。例えば、僕は以前、活動家の人に、運動を撮るという行為の中で「不愉快なのは自分たちの

   行動が編集される事だ。撮ったら撮ったままのものを繋いで見せて欲しい」と言われたことがあるんです。編集して、

   ある文脈を作り出すことでそこに作為が生まれる。それが運動の当事者にとっては許しがたいと。その時に僕はそれまで

   自分にとっては自明だった編集というものについて根本的に考えざるを得なかった。そして、被写体がどう文句を言おう

   と、編集という行為は映画を映画たらしめるためには絶対に必要なものなんだと開き直りに近い形で考えるようになりま

   した。それで、この『ねじ式映画』を初めて見て、編集があらかじめ排除されているような作り方をしていることに

   ショックを受けたんです。映画が映画であることが崩壊しかねないリミットのようなものが体現されていると。

岩佐 編集以前に、映画のやっている時間の中を、その映画をやっているということのために、どれだけ自分達が生きた時間を

   残すかということが勝負だったと思うんですね。だからこういうことを言いたいということではなくて、その映画を廻し

   ている、というか準備も含めてその映画を撮っている、そのことによって生じてくる現象とその波紋をいかに拡大させて

   いくかということに力を尽くしていたと思うんです。これはゴダールのシネマヴェリテという方法に非常に忠実という

   か、近いものであったと思うんです。あとはそれを見る人にポンと投げ出すことが大事だと。そうすると自分が映画した

   時間というものを、見る方も映画するだろうということですね。だから編集をしないということに意味を感じてやったの

   ではなくて、映画していた時間をポンと投げ出す、その投げ出し方ですね。その結果を見る側が、われわれが撮っていた

   時の面白さ、緊張、そういうものを共有しながら、今度は百人百様自由に組み立てていくだろうと。ただ触発しないもの

   を放り出してもしょうがないわけですから……そういうことです。

井土 なるほど。岩佐さんの意図を超えて、多分僕は編集の問題というのを考えされられたということですかね。触発しない

   ものを放り出してもしょうがないというのはその通りで、僕がこの映画を見ていて思うのはカメラが廻っている間に、

   何とか何かを起こそうと作り手側はしているということです。カメラが廻っている瞬間に何かが起こる。これが本来の

   フィクションの力です。もちろんモンタージュで新たな意味を生み出していくという映画の力もあるけれども、ある一定

   の時間の持続の中で、何かとてつもない出来事が起こって、それがフィクションとして力を持ちうるというのが映画の

   最大の魅力です。それは『ねじ式映画』の後に作られる『叛軍No.4』という映画でより徹底した形で実現していると

   思います。カメラが廻っている間にいかにフィクションというものが立ち上がってくるか。編集というものに頼らない

   フィクションというものはどういうものなのか。そういうことについてもこの映画や『叛軍No.4』にはものすごく考え

   させられますね。

岩佐 この時代の映画というものがどういう状態にあったかということがわりと大事だと思うんですね。まず当然映画といえば

   興業として発展してきた撮影所の映画がある、それに先ほど井土さんがいった日本共産党を中心とした自主映画という

   ものがあった。それをもひっくるめて映画というものは完全に特権の世界だったんですね。あるいは囲いの中の世界と

   でもいいますか。つまり普通映画人でない人は映画など触れる世界ではなかった。遠い向こうにあるものだけれども、

   そこで作られた作品は送りとどけてもらえるから、それで楽しむ、そんな関係の中に映画はあったわけです。自主映画と

   いっても、それは一つの組織をバックにしてすでに特権をもったスペシャリストたちが作って、これを自主映画として

   出したのがそれまでの左翼の映画だった。現在は映画といっても、簡単なカメラを使って誰でも作ることもできる。僕ら

   以前の時代というのは、やっぱり完全に職人として仕込まれた監督がそういう世界の中で映画を作って観客に与えていく

   という関係を持っていたわけです。ところが僕らの時代からはそうでなくなってくるんですね。小川にしても、土本さん

   にしても、黒木さんだってそうですよ、特別職人的な経験を深く積んで、撮影所で訓練して出てくるというのではなく

   て、何しろ作りたいものを作るということから出発している。それは特権の世界からやっと一歩踏み出して、むちゃく

   ちゃがんばれば映画をつくれる、そういう時代がやってきたということですね。

   もう一つは映画の機材、機能の問題です。今はフィルムを廻すと音が当然同時についてくる。映画というものは音が同時

   に撮れるものだとみんな思っているわけです。ところがこの時代というのは同時撮影というのはまだまだ大変なことだっ

   た。

井土 確かに『ねじ式映画』は見事な同時録音ですね。

岩佐 大変だけど、それ以前の大変さから見れば同時撮影が普通になっていく過程の最初の一歩、二歩あたりにあったんです

   ね。この同時録音というものを生かして、無手勝流で映画の方法というものをもう一回捉え直してみたら、「あっ、映っ

   ていた」というあの初期の喜び、リュミエールの喜びに通じる映画作りができるのではないか。そういう意味で同時録音

   ということにものすごく固執しました。これは大変お金がかかる。機能的にも、当時やっといいナグラという録音機が

   できて、エクレールというカメラがあって、これがシンクロナイズする。そういう録音機材を利用しなければ僕の映画は

   できないだろうと、思ったのです。

   テレビはどうだったかというと、その当時オリコーンという磁気で同時録音できるものがありました。ほんの2・3年で

   すが。これは同時録音できますけれど、やっぱり番組のほとんどは部分的に使っているだけなんです。ニュースは全部

   オリコーンだったと思いますけど。ともかくそんな時代ですから同録は当たり前だと思って見ている今の感覚とは違っ

   て、そこに際立った意識を持たないとできないことだったのです。それにそこからくる撮影時の効果、つまり撮る者と

   撮られる者との緊張関係ですね。今では同録で「さあ撮るよ!」といっても、「はい、どうぞ!」といった感じですね。

   あの頃はそうではなくて「あ、来たな!」という構えが生じる。われわれの方は、そこでその特権を逆用してさらにそれ

   を拡大しようとしたところがありますね。カメラを媒介にした人間関係もそのありかたが今では違ってきているのではな

   いでしょうか。

井土 この映画の同録の凄さというのは、同時期の『圧殺の森』あるいはこの映画以降のたとえば小川紳介さんの初期の三里塚

   の映画を見てもわかる。そこではまだ音がシンクロしていないですもんね。

   もう少し、『ねじ式映画』についてお伺いしたいんですが、この映画には作り手と被写体の関係についても非常に考えさ

   せられるものがある。時代的なこともあるんでしょうが、作り手はわりあい権力的に振舞っていますよね。被写体には

   反論も許さない感じで撮っていく。それにはやっぱり35mmのカメラの力というのもあるんだと思います。いつスタート

   したかわかんないようなデジカムで撮るのとは違ったんだろうなと。

   ところで、この『ねじ式映画』は廻したフィルムはすべて使ったんですか。

岩佐 やっぱりごく一部ですかね。

井土 たとえば日付順で何分か廻していって、使っていない部分もいっぱいあるということですか。

岩佐 ええ、詳しくは忘れましたが、それはありますね。使ってない日にちの所でたくさんあったとは思えないけど、廻した

   日はもっと廻していると思います。その中から切実な時間といえるものをただ取り出していったというか。そういう感じ

   ですね。

井土 やっぱりかなり廻してるんですね。

岩佐 それはある程度は。

井土 つまり編集はあるということですね。

岩佐 選択はあるということですね。

井土 なるほど、選択ですね。

   あと面白いと思うのは恐れずに質問を反復するところですね。たとえば僕が俄然面白くなってくるのは、演劇人たちが

   樺美智子さんの命日にデモをやって、集会をするのに吉田日出子が参加しない。それで、自由劇場の男優陣に「行かな

   かった吉田日出子をどう思うか?」と。そこで吉田日出子は糾弾されるわけでも何でもなくて、「いや別にいいんじゃな

   いの」「デコの勝手じゃない」と。一回目はみんなの反応は素っ気無い。ところが、作り手はまた次の日同じ質問を男優

   陣にぶつける。そうすると全然違う答えが出てくる。その反復とズレですね。これをわりに丹念にやっている。この辺は

   どういう狙いでやられたんですか。これは『ねじ式映画』というタイトルとも絡んでくるのかもしれないですけど。

岩佐 『ねじ式映画』というのは撮影が終わってから付けたタイトルですから、それとは関係ないです。ただ新たな生きた時間

   を作るというのに同じ事をやっても、一つ過ぎた後にまったく違うものがまた生み出されていく。これは実人生でもそう

   だと思うんですよね。そういう面白さがでると面白いなという事はありました。

井土 何でタイトルと絡むと思ったかというと、ねじは同じ場所をくるくる回るけど、回っていく中で位相は違ってくる、そう

   いうことなのかなと思ったんですけど。

   岩佐さんはこの映画が公開された時のチラシやいろいろな所で、1968年という時代状況あるいは時代精神みたいなもの

   を告発したいという事を結構執拗に書かれている。それは映画後半に、小劇場界の演出家達、芥正彦や瓜生良介が登場し

   てきて、吉田日出子と議論するところに端的に現れているように思えます。僕は、本当にこの辺が面白い。それは何かと

   いうと,男たちはやみくもに観念的で,何か嬉々として持論を展開して議論を吹っかけるんだけど、吉田日出子は明らか

   にその議論が拠って立つ地盤自体を批判するように存在している。その吉田日出子の在り方が、何か男性原理の共同体の

   中で、男性原理に従属するんではなくてあくまでも女性的な思考で対峙しているように見える。男性原理が支配的だった

   のは当時の演劇の世界だけではなくて、運動の現場や職場でもそうだったと思うんですね。それは『レフト・アローン』

   という映画の中に女性が登場しないということとも無関係ではないと思う。それを吉田日出子の存在の仕方が照射してい

   る。あの男たちと吉田日出子のやりとりというのは,時代状況みたいなものを超えて、ある種の普遍性を獲得していると

   思います。

岩佐 井土さんがさっきから,僕はここが面白かったというふうにいわれて、最後は女性の問題に繋がったわけですけど、おそ

   らくこの映画は一人ずつ全然違う所を面白がっていると思うんです。それはそれでそういう映画だと思うんですが、女性

   の問題で見ますと、男というのは時代の中で踊るんですね。こういう季節にはとりわけ踊るんです。この踊っている様子

   がまわりの男達ですよ。特に演出家達。女性というのはそういう時代の中で特別踊るわけではない。一部何か観念過剰で

   騒ぐ女の子もいるけれど踊るわけではない。その事が何十年たって見ると非常に感じるんです。これは結果です。吉田

   日出子という女優はまさにあの時代の女性であると同時にまことに素直な女性です。でも、いやだからほんとに駄々こね

   たらすごいですよ。自分で言っているけれどあの駄々こねというのはまことに正直が故ですよ。今日ずっと見ていて、

   どんなに映画の上でいじめられていても嫌な顔をしないで自分の本心を探していますね。芥君との応答の中でもやっぱり

   一貫していて、困りながらも非常にヒューマンですね。そういう意味で人選は間違っていなかったと今新たに思います

   ね。構想段階で、ああいう場所にだれを置くかと考えた時にパッと吉田日出子が出てきたんです。何で知ったかというと

   大島渚の「日本春歌考」という映画を見て,この女優は面白いぞという風に思ったんです。あの自由さがおそらく彼女に

   は内在しているだろう、と思ったんです。あのような映画作りを考えているのですから、どんな映画が出来るか自分でも

   わからない。ただ自分の構想、考え方みたいな事を吉田日出子に当てて想像するとぞくぞくするものがある。思い出話に

   なりますが、黒木和雄に吉田日出子という名前を伏せて、映画の構想をしゃべりまくったんですよ。すると全部聞き

   終わったら彼が、「それは吉田日出子だな」と僕に言ったんですよ。僕はどきっとして,これはもう何が何でもそうだろ

   うと。これは間違いないと思って、それでいきなり吉田日出子に連絡して会ったんですよ。どういう映画なの? という

   から、そんなのどういうことになるか僕自身わからないと、答えました。彼女困りますよね。とにかく考えるから時間を

   下さいと、言ってその日は別れました。そしたら一週間もなかったかな、彼女からやりますと言って来たんです。そうい

   う過程があって彼女になったんです。

井土 吉田日出子と男性たちの関係の在り方は、ほんとに今見ても時代を象徴していると同時に、ある種の社会や共同体のあり

   方を批判的に照らし出していると思います。

岩佐 その通りですね。

井土 これも岩佐さんが書いている言葉で「今まではスクリーンが観客に投げかけるだけだ。そうではなく、ある観客の意識を

   鼓舞する」というのがあります。これはブレヒトの演劇に対する態度だと思うんですけど、『ねじ式映画』はその映画的

   な実践だと思いました。これはやってみていかがでしたか。その後の『叛軍No.4』や『眠れ蜜』では、その方法がまた

   ちょっと違っていくと思うんですが。

岩佐 もう少し単刀直入に質問してくれますか?

井土 観客の意識を鼓舞する映画というのはどういうものなのか、あるいは出来た映画に対する当時の観客の反応はどうだった

   のかということなんですが。

岩佐 わかりました。さっきすでに言いましたけど、自分達が緊密に映画するという事で生きた時間を放り投げればその緊密度

   に従って観客は確実に自分が関わっていくだろう。それはこっちが最初に触発はしているけれども、特別なメッセージ

   を、こうあるべきだというメッセージを送っているのではなくて、見る側が積極的に捉え返してくるはずだという気持で

   作りました。

井土 その後、『叛軍No.4』や『眠れ蜜』では、岩佐さんのいわれる「映画する」というのとは少し作り方が変わってくると

   思うんですが。

岩佐 そうですね。

井土 その過程での意識の変化みたいなものはどうだったんですか。

岩佐 裸の形として、『ねじ式映画』というのは直進的にやったものですね。こういう事はまったく同じ形でやっても自己模倣

   になる。自己模倣ほど自分にとって面白くない事はないわけですから。吉田日出子は女優ですね。女優というものは自分

   でありながら自分そのものではない人物を演じていくわけです。そこにフィクションとドキュメンタリーというものが

   メビュウスの帯のように……フィクションだフィクションだと思って見ていくと、いつの間にか本当の世界、(本当の

   世界といっても映像ですからこれも虚像なんですが)に変容していく。そういう構造を、シネマヴェリテを用いながら

   踏み込んでいきたいなと思ったのです。そういうことで、『叛軍』があり、『眠れ蜜』もそれを引き継いでいくんです

   が、だんだんと初心の部分が削られていくのを感じましたね。初心は貫くべきだと思うと同時に自己模倣は絶対やりたく

   ないという……ものを作るというのはその辺が厳しいものですね。ともかくそういう形で3つが進んでいったという事だ

   と思います。

井土 非常によくわかります。特に『眠れ蜜』になると、かなり劇映画の要素が強くなってきて、空撮をしたり、いろいろやら

   れてて、あれも35mmですか。

岩佐 あれは16mmですね。カラー部分が真ん中にある。

井土 あれも非常に変な面白い映画だったんですけど。僕が個人的にすごく気になるのは、三本作られて『眠れ蜜』が、あれが

   何年くらいですか、76年ですか。

岩佐 そうですね。あの映画を作ろうとしてから、2、3年撮れないままあって、さらに上映したのがその年ですね。

井土 これは他人事ではなくて、自分たちの問題としてもお伺いしたいのですが、僕もプロデューサーの吉岡たちとずっと自主

   製作、それから自分達でちゃんと上映していくということをやってきた。それで、かつての独立プロ運動、自主製作、

   自主上映の問題なんですけど、継続していくには二つの困難があると思うんです。一つは作り手のモチベーションの

   問題。自分の作るべきモチーフがなくなる、内的な問題ですよね。もう一つは確実に下部構造の問題、経済的な問題があ

   る。自主製作というのは作品を自分たちでコントロールできるかわりに経済的には大きなリスクを負わなければならな

   い。映画は儲かるわけじゃないから、作れば作るほど借金が増えていって、メンバー全員がいずれ疲弊することになる。

   だから、僕たちもこれからいかにして作りつづけ、上映を続けられるのかという不安があります。それで残酷な質問かも

   しれないですが、内的な事情、あるいは経済的な問題などいろいろあるとは思いますが、岩佐さんが76年くらいで一度

   映画というものから離れられてしまった理由についてお聞かせください。

岩佐 全然残酷ではないんですが……井土さんは残酷という言葉を質問の中で入れましたよね。これはおそらく僕の類推だけ

   ど、映画をやっていたんだけれど、それを進行させる事に挫折して、テレビの世界に逃げたんじゃないかという事を意味

   しているじゃないかと思うんです。残酷というインサートを入れたくなるのはよくわかるんです。ただぼくの方はそう

   思われたところで全くどうということはないんですよ。僕は目の前に面白い事があればいいんですよ。それが連続して

   いれば僕はいいんです。ちょうどテレビの仕事がやってきたとき、それまでの映画作りのやり方ではもうどうにもならな

   くなっていたことは事実ですね。これは経済的な問題も含めてそうでした。その頃、テレビの仕事で、世界の音楽につい

   て,世界中を駆け巡る仕事が5年間くらいくるんですね。それから世界の各地をかけめぐりだしたのです。68年頃という

   のは東京にまだ今のようには外人はいなかった。珍しくはないけれど、具体的に接するというのはまだそれほどないくら

   いの時代ですよ。ですから世界を巡りながらいろいろな民族のありかたというものを、直接ふれながら考えていくという

   のが面白くてしょうがなくなってきたんですね。僕は仕事が面白ければいいわけですよ。僕には映画をあきらめて、テレ

   ビの世界に入ったとかいう意識は全くないのです。やっているうちにそのことがものすごく面白くなってきて、これは

   自分の今まで作り上げてきた考え方を思いっきり壊しながら、今まで考えてきた事をどう大事にしていくかという作業に

   入った感じがするんです。僕が先ほど言った新左翼形成時代に思い描いていた世界のことを反芻しながら、実地の手触り

   で世界の民族の問題とか文化のあり方というものを新たにとらえていける。時間も空間も重層化して思考できる。そうい

   う中から当然東洋、日本も新たにみえてくるところがある。そういうことが面白かったのですね。ですから映画から逃げ

   た結果のテレビという意識はないのです。ただそんな場当たり風な生き方になってしまう自分は、いわゆる<映画作家>

   じゃないんだな、と思うことがしばしばありますね。

井土 岩佐さん個人の好奇心が仕事とクロスしていったということですね。

岩佐 そうですね。

井土 あえてもうちょっとこだわってお聞きしたいんですが、映画を作っていく上で、シネマ・ネサンスという団体を作られて

   いたわけですよね。団体というかグループですか。それは自然解散という感じだったんですか。たとえば小川プロという

   と物凄い結束力だったというイメージがあるんですが、もう少し緩やかなものだったんですか。

岩佐 緩やかというより、僕は家父長制を体質的に全く持っていませんで、ハロー、グッバイで結構だと。ただやっている間は

   どこまでも緊密でありたい、またそうでなければできない、ということはありますね。一つ終わったら、パッと解散す

   る。組織としての人間関係の重荷を背負うのはぼくの体質としてもともとなかったのではないでしょうか。ある種の考え

   をもってそうしていたわけではないけれど、今振り返れば僕はそういう生き方しかできなかったんだな、と思いますね。

   人間関係に澱が溜まるのがいやなんですよ。

井土 なるほど。今日は、今後の自分たちの活動の指針となるような貴重なお話までお伺いすることが出来て本当に感謝して

   おります。長い時間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。


※ 「思想読本 1968」に収録された「汚辱にまみれた人々の映画」の中で、私は次のように書いた。


《そのようにして、映画が始まってから数十分は、作り手の被写体に対する挑発が虚しく空回りする様子が映し出され

ことになる。例えば、女優の吉田日出子に「初潮が始まったのは何歳の時か?」とか「その時の様子はどうだった?」

などとセクハラまがいの質問をして冷笑されるところなどは、見ていて痛々しいほどだ(この点においては、明らかに

時代とこの映画の限界が示されている)。》


しかし、今回の上映で再見し、吉田日出子にこのような質問をしているのは、作り手ではなく、週刊誌の記者であることが

分かった。週刊誌の取材の様子を撮影したシーンを、私は作り手が取材しているシーンと混同したのである。よって、「こ

の点においては、明らかに時代とこの映画の限界が示されている」という私の一文が全くの誤りだったことが確認できた。

『ねじ式映画』は時代的な限界を示すどころか、今日においてもますますその可能性を示していることが明らかとなった。

(井土紀州)


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